苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

派遣礼拝説教:宣べ伝えるべき福音 (2023年9月9日更新)

「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ1:13,14)

 

 福音の伝道者は、伝えるべき福音を正しく認識していなければ、その任務を果たすことができません。

 ところが、 2016年神戸における日本伝道会議、2017年、2018年の学会誌「福音主義神学」が連続で、NPP(New Perspective on Paulパウロ理解の新視点)の是非をめぐって福音理解をテーマとして取り上げたことに現れているように、今日、福音派陣営内で福音理解に混乱が生じています。

 NPPに造詣の深い河野勝也氏(ホーリネス中山教会牧師、青山学院講師)によれば、NPPは宗教改革者が信仰義認の根拠とした「代償的贖罪を克服し、キリストへの参与としての愛の贖罪論を目指す」と主張し、また「パウロヨハネは、断罪せずに赦すラディカルな愛を描く点において一致している」とも主張しています(東京ミッション研究所ニュースレター2018年第86号)。
 そこで、改めて聖書に福音とは何かと問うてみたいと思います。

 

1 サタンの支配から御子の支配へ・・・王なるキリスト

 

 コロサイ書上掲の箇所は、キリストにある救いを二つの側面から簡潔に表現しています。ひとつは、「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」つまり、私たちを暗闇の支配から救出して、御子キリストの支配の中に移されたということ。もうひとつは、「この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ている」ことです。

 「暗闇の力」とはいうまでもなく、サタンの圧制を意味しています。パウロは、エペソ書2章1,2節では、「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。」と述べています。救いの一面は、空中の権威を持つ支配者、すなわち、サタンによる暗闇の圧制から解放されて、キリストの支配(バシレイア)に移されたことです。

 このとき、エスは王(バシレウス)として意識されています。この観点から福音とは何かというならば、「王なるイエスが来られた!」という布告です。共観福音書の冒頭に「預言者イザヤの書にこのように書かれている。「見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。』」(マルコ1:2,3)とありますが、これは王(バシレウス)の行幸を迎えるために道普請を命じる使者の声です。「時が満ち、神の国(バシレイア)が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)とは、「神が遣わされた王(バシレウス)が到来した」ということを意味しています。つまり、共観福音書の冒頭が告げる福音とは「王であるイエスが来られた」という意味です。

 イエスが王として来られる前、世はサタンの暗闇の圧制下にありました。サタンの圧制下にあったとき、人は罪と欲望の奴隷であり、死の恐怖の中に置かれていました。王なるイエスは、そこからご自分の民を奪回して、ご自分の支配のもとへと移すのです。

 王なるイエスはどのようにして、サタンと戦われたでしょうか。公生涯における荒野の四十日、悪霊追い出しも癒しのわざもそうでしょう。しかし、サタンとの戦いのピークはゴルゴタの丘でした。十字架刑を目前にして、主イエスは王の装束をまとわれました。ローマ兵たちはイエスに派手な衣を着せ、頭にはいばらの冠をおしつけ、手には葦の王酌を持たせたのでした。主イエスは王としてサタンとの戦場であるゴルゴタの丘へと赴きました。サタンはユダの心に入り込み、イエスを裏切らせ、イエスを十字架につけさせました。ところが、イエスは十字架における死と三日目の復活をもって、サタンに対する決定的勝利を収められたのです。

 王なるイエスの十字架と復活によって、サタンの支配から救出された私たちは、王なるキリストの臣民となりました。私たちは王なるキリストの臣民ですから、日々、「御国(王国)を来たらせたまえ。」と祈りつつ、王のみ旨が私たちの生活のあらゆる分野に成るために生きるのです。

 東方教会の贖罪論の伝統では、この悪魔に対する勝利と悪魔の支配からの救出が強調されてきました。包括的な神の国の視野は、キリストが王であり、キリストが王国をもたらされたことを意識することによって得られるでしょう。教会の社会的責任は王なるキリストの臣民としての責任です。闇の王であるサタンから解放されてキリストの臣民となり、キリストのいのちと使命に参与するということが贖いの一面であることは事実です。NPP(といっても幅はありますが)が、「キリストへの参与」(サンダース)こそ福音の本質だといい、「福音とはイエスは王であるという宣言だ」(ライト)という主張は正しい主張です。ただ、サンダースは悪魔を持ち出さないので、聖書が率直に語るほどに事柄は明瞭になってはいないのですが。

 しかし、キリストに参与するためには、まず、その参与の障害となっている罪の問題を処理していただかねばなりません。つまり、キリストの代償的贖罪を受けなければ、キリストへの参与はかなわないのです。

 

2 キリストの代償的贖罪と罪の赦し・・・大祭司なるキリスト

 

 次に、コロサイ書でパウロが教えるキリストによる救いのもう一面は、「この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」ということです。こちらは、西方教会の伝統で強調されてきたことです。私たちは、キリストにある救いというと、まず、私の罪を大祭司であるイエスがあの十字架で、自らを神への宥めの捧げ物としてささげ、私たちの罪を背負ってくださった出来事を、何よりもありがたいこととして意識します。

 しかし、17世紀の反三位一体論者ソッツィーニ、19世紀シュライエルマッハー以来、現代にいたる自由主義神学の流れの中にある人々は、キリストの十字架における代償的贖罪を否定し続けてきました。ソッツィーニは言います。「キリストに対する身代わり的懲罰は不合理、支離滅裂、不道徳そして不可能である。赦しの授与は、神の正義の要求に対する充足行為を行うことと一致しない。また罪ある者から罪無き者キリストへと刑罰の対象を移すことも不公正である。また、キリスト一人の一時的な死は、多くの者の永遠の死の本当の身代わりとはなりえない。そして、完全な代理的充足というようなものが本当に存在するのだとしたら、そのようなものは必然的に、罪の中に無制限に生き続けてよいという許しを私たちに与えるものとなろう[1]。」

 キリストの代償的贖罪を否定する論理は、ソッツィーニ以来、現代にいたるまで本質的に何も変わっていません。たとえばカトリックの聖書学者森一弘司祭は、高橋哲也氏との対談で、次のように耳を疑うようなことを言っています。「キリストの十字架を『犠牲』というかたちで説明するのは、先ほど申し上げた正義、交換の正義と言う視点が、聖アンセルムスとか トマス・アクィナスあたりで神学の中にどんと入ってきてしまった論理です。それがのちに主流になって今日まできてしまった。ところが、キリストの十字架を『犠牲』としてとらえてしまうと、神の姿が歪んできてしまう。それは現代の神学者たちも指摘しているところです。(中略)ちなみに、福音書をずっと読んでみても、福音書の中にキリストの十字架を『犠牲』とする、あるいは罪のあがないとするような言葉は全く出てきません[2]。」
 森司祭は、罪を赦すにあたり御子を十字架にいけにえとして要求するような神は残忍な神であるというのです。神は善悪併せのむ、無限抱擁的な神であってほしいというのです。最初に申し上げたNPPの「代償的贖罪を克服し、キリストへの参与としての愛の贖罪論を目指す」とか「パウロヨハネは、断罪せずに赦すラディカルな愛を描く点において一致している」という主張も同じ内容です。

 しかし、福音書において主イエスは代償的贖罪を教えました。「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」(マルコ10:45)「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」(マタイ26:28)また、バプテスマのヨハネはイエスを指して、代償的贖罪者として紹介して言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(ヨハネ1:29) 

 また、パウロは、福音とは何かということを定義して、1コリント15章1-5節でキリストによる代償的贖罪についてはっきりと教えています。「兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」

 へブル書も言います。「キリストはやぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(へブル9:12)「血を注ぎだすことがなければ、罪の赦しはない。」(へブル9:22)

(以下5行は2023年9月9日に付加)

 そして、古代教父たち例えばカイサリアのエウセビオス、クルソストモス、アウグスティヌスたちは、悪魔の支配からの解放とともに、キリストによる代償的贖罪を教えていました。同じように、16世紀の宗教改革者ルターやカルヴァンも、代償的贖罪を軸としつつ悪魔の支配からの解放をも教えています。要するに聖書は神のことばであると率直に信じた人々は、同じことを語っているのです。

 ソッツィーニ以来の、キリストの代償的贖罪は不合理、支離滅裂、不道徳そして不可能であるという主張を聞いて思い出さずにいられないのは、使徒パウロのあのことばです。たしかに「十字架のことばは、滅びる者たちには愚か」なのです。しかし、「救われる私たちには神の力です。」(1コリント1:18)

 

結び

 聖書が私たちに教えている福音とは、

 第一に、キリストは祭司として、十字架においてご自分を神への犠牲としてささげ復活をもって私たちの罪を償って、神の前に私たちを義とし、赦してくださったということ。(ローマ書では1章から5章)

 第二に、同時に、キリストは王として、十字架と復活において私たちを悪魔の圧制から救出して、ご自分の支配下に置き、私たちを臣民として召してくださり、キリストに参与するものとされたということです。(ローマ書では6章から8章)

 もう一度言います。聖書が私たちに教えている本物の福音とは、キリストの代償的贖罪を根拠として神との関係を義とされ、王なるキリストに参与して神の子、御国の相続人として信仰の従順に生きる者とされたことを意味しています。それゆえ、私たちはキリストの犠牲への感動と感謝のゆえに、臣民としてキリストに忠誠を尽くして、キリストのみ旨が地に成るために、福音の宣教と献身の生活に励みたいものです。

 

[1] J.I.パッカー『十字架は何を実現したのか―懲罰的代理の論理』(長島勝訳、いのちのことば社、2017)10頁

[2] 高橋哲哉・菱木政晴・森一弘『殉教と殉国と信仰と』  (白澤社発行・現代書館)98,99頁