苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

章立てをはずして聖書を読むこと

 聖書に付けられた章と節は後代に付けられたものである。聖書の創世記第1章からして、章の立て方をまちがえていて、1章の創造記事は2章3節まで続いている。だから、章を外して聖書を読んでみることである。章立てが間違っているわけではなくても、もともとそこには区切りがなかったことを意識すると、見えて来るメッセージがある。

 一つの例は、ローマ書12章17節から13章4節である。章を外してみるとつながりが見えてくる。

17,だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。18,自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。19,愛する者たち、自分で復讐(エクディケオー)してはいけません。神の怒り(オルゲー)にゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐(エクディケース)はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。20,次のようにも書かれています。「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。」21,悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

1,人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。2,したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は自分の身にさばきを招きます。3,支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐ろしいと思いたくなければ、善を行いなさい。そうすれば、権威から称賛されます。4,彼はあなたに益を与えるための、神のしもべなのです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒り(オルゲー)をもって報います(最後の一文を直訳すれば、彼は神のしもべであり、悪を行う者に対する復讐者(エクディコス)です。)

 パウロはローマ書12~15章でキリスト者の倫理を説いて、9節から21節で愛の倫理を説く。この中で、自分自身に関しては悪者から受けた被害については、復讐は神に委ねて、善をもって悪に打ち勝つようにと命じている。「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する者たち、自分で復讐し(希:エクディケオー)てはいけません。神の怒り(希:オルゲー)にゆだねなさい。こう書かれているからです。『復讐はわたしのもの。わたしが報復する。』主はそう言われます。次のようにも書かれています。『もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。』悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12・17-21 傍点筆者)これは主が山上の説教で教えられた「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5・44)と軌を一にしている。ここまでは、「自分に関することについては」とあるように、キリスト者の個人としての倫理について教えられたことであると解される。

 ところで愛の倫理の中で「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」という申命記32章35節からの引用を根拠として、「神の怒り(希:オルゲー)にゆだねなさい」とパウロは命じている。悪者に対しては、神が復讐し(希:エクディケオー)てくださるから神に委ねよというのである。では、神は具体的にどのようにして悪に復讐なさるのか。究極的には最後の審判においてだが、今の世における神の復讐については、続く13章に書かれていると解される。そう解釈すべき根拠は、13章4節が、12章19節を下敷きにして記されていることである。

「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は自分の身にさばきを招きます。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐ろしいと思いたくなければ、善を行いなさい。そうすれば、権威から称賛されます。彼はあなたに益を与えるための、神のしもべなのです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒り(希:オルゲー)をもって報います。」(ローマ13・1-4 傍点筆者)

 4節傍線部を直訳すれば、「神のしもべである彼は、悪を行う人に怒り(希:オルゲー)を報いる復讐者(希:エクディコス)である。」となる。エクディコス(復讐者)は12章19節の動詞エクディケオー(復讐する)と同根である。このように用語の一致からも明らかなように、13章4節は12章19節を下敷きにしている。神は俗権に剣の権能を託し、俗権は社会秩序を維持するために法と剣によって悪者を罰する。だから、個人としては神に復讐は委ねて、悪者に対して善をなせと12章では勧めているのである。

 

 もう一つの例。それはマルコ福音書12章末尾のレプタ二つのやもめの記事と、13章の神殿滅亡の予告の記事である。章を外して表示してみると読者は、この二つの記事の記事のつながりの意味がわかるだろう。

41,それから、イエス献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。42,そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた。それは一コドラントに当たる。43,イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。44,皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」1,イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」2,すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」

 弟子たちがヘロデが大規模改修した神殿に目を見張っているのに対して、主イエスは、「君たちは何を驚いているんだ。ついさっき教えたことを忘れたのか。大金持ちたちが捧げた金貨も銀貨も、一人のやもめがささげたレプタ二つに及ばないと言ったではないか。ヘロデが自己顕示欲を満たすために飾り立てた神殿などまもなく崩れ落ちてしまうのだ。」とおっしゃっているのである。これは宮村武夫先生の受け売り。

 ほかにもこのような箇所を意識して探してみると面白そうである。聖書協会共同訳は「小見出し」を付けていて、それはたしかに便利ではあるけれど、翻訳者の神学的意図が入り込んでいる。以前にも指摘したことがあるが、ある神学的意図から文脈を断ち切るために無理な小見出しを見つけたことがあるので感心しない。章を外し、小見出しを外して読んでみて、それは本当に区切ってよいものなのかどうかを読み直す必要がある。 

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