またも、冤罪再審が認められた。報道を見る限り、どう考えても無罪だろう。無罪であろうから「あかずの扉」と呼ばれる再審が認められたのである。それにしても恐ろしいことである。警察、検察、裁判所はいったいなにをしているのだろうか。
一昨年秋、裁判員制度にからんで、あれこれ聖書から考えたことをメモしたことを、ここにまとめたことがある。体系的になっているわけではないが、ここにまとめておく。
<もくじ>
1 裁判員制度の長所・短所
2 国家とその役割
3 国民の代行者としての裁判官
4 正しいさばき
5 個人的なことと公的なこと
6 裁判員の抵抗感
7 裁判員の適性
8 裁判員制度の欠陥・・・見えないワイロ
9 官僚裁判官の関心事
10 応報刑か教育刑か
11 死刑制度の是非(1)
12 死刑制度の是非(2)
13 死刑制度の是非(3)
1 裁判員制度の長所・短所2009年9月10日
まず、裁判員制度の問題点について大雑把に把握するために、井上薫、門田隆将『激突 裁判員制度』から、裁判員制度について井上氏が挙げる問題点を三つメモしておく。
第一は、裁判は法律に基づいてなされるべきであるのに、当の裁判員になる人たちは法律の素人である。
第二は、裁判にあてる期間が3日から5日間ときわめて短い。その理由は、それ以上裁判員を時間的に拘束できないからである。けれども、これでは事実認定が正確にできるとは思えない。被告に不利である。
第三は、裁判員は、評議の秘密とその他職務上知りえた秘密をもらしてはいけないという守秘義務を、一生涯負う。評議の秘密とは、評議の経過のほか、裁判官と裁判員の意見と、評議におけるその多数決の数のことを意味している。仮に守秘義務に違反したばあい、六ヶ月以下の懲役または五十万円以下の罰金に処せられる。
これに対して、門田氏はこれらの問題性を認めながらも、多数の欠陥裁判官と判決を取材してきた経験から、むしろ裁判員制度には有効な点が多いとしている。
第一に、かつて、官僚裁判官たちは、憲法に反し単なる慣例を理由に、長年、公判中の傍聴者たちによるメモを禁じてきた。官僚裁判官たちが必ずしも法律に則って行動してきたとはかぎらない。
第二に、裁判員制度では公判期間を短縮するために、「公判前整理手続」という新しいシステムを導入することになった。これによって、裁判官・検察官・弁護人そして希望すれば被告人も出席して、初公判の前に証拠や争点を絞り込んで審理計画を立てることになった。ここで検察官はすべての証拠を開示しなければならない。これは、従来検察が自分の立証に都合のいい証拠だけを提出していたことに対して、画期的なことである。公判前整理手続によって、警察の捜査手法、取調べ時間まで開示される。これは正確な事実認定に役に立ち、被告にとって有利である。
第三に、官僚裁判官たちは学生・司法修習生時代から選民的な狭い特殊な環境で生活をしてきたために、一般的生活経験や社会常識が著しく欠落しており、それゆえ事実認定が正確にできないケースが多い。むしろ一般人から採用される裁判員のほうが正しく事実認定をすることができるので、彼らと協力して判決を出すことは有益である。
第四に、多くの官僚裁判官の最大関心事は保身と出世であり、抱えている裁判件数が膨大なので個々の事件に見合った判断をしないで、ただ機械的表面的に前例の相場に従う習性がある。これに対して一般人から選ばれる裁判員たちは、そうしたしがらみがなく、ほとんど一生に一回の貴重な経験なので、個々の事例に誠実に向かって判断しうるであろう。
第五に、官僚裁判官は国や自治体から給料をもらっている公務員であり、裁判所が裁判官にリクルートするのも、社会意識の高い人ではなく、上に対して従順な官僚タイプの人々なので、公務員仲間である国や自治体や警察に不利な判決を出すことができない傾向がある。これに対して裁判員は、そういうしがらみから自由である。
この議論の結末で、門田氏は、このたび始まった裁判員制度には多くの問題があるとしても、過去の官僚裁判官制度を根本的に反省し改正していくためには「過渡的なもの」として意義があるという。そして、両氏ともにだいたい一致して、次の提案である。<三年後の見直しの時点で、裁判員制度の問題点のひとつである「法律を知らない素人」が裁判員になるということに改定を加えればよいのではないか。すなわち、たとえ司法試験を合格していなくても、法律について素養のある法学部出身者、ロースクール出身者にかぎって裁判員とするというふうにしていけばよいのではないか。>
2 国家とその役割2009年8月6日
裁判員制度発足後、初の公判が現在進行中である。ローマ・カトリック教会は、政教分離原則に反する可能性が高いとして聖職者たちに裁判員になることを辞退するように勧告し、一般信徒に対しては、司祭に相談してよいと述べ、特にカトリックの見解としては死刑制度廃止が望ましいと考えていると述べている。プロテスタント諸派では統一見解は提出されていない。
司法は、立法・行政とならぶ国家の三つの務めのひとつである。裁判員制度について聖書にしたがって考えるにあたって、まずは、聖書における国家というものはなんであるのかについて大きな文脈を確認してメモしておきたい。
神が国家に委託している務めは、ローマ書13章の言葉に基づいて伝統的に「剣の権能」と呼ばれてきた。これは堕落してしまった人間社会の実情にあっては、残念ながら暴力装置で社会秩序を維持せざるを得なくなっていることを示している。また、ローマ書は俗権には「徴税」する権利があることも述べている。広く民から集められた富は、権力者の懐を暖めるということはありがちではあるが、本来的には公共的な働きのためにこれを配分するというのが権力者にゆだねられた務めである。というわけで、ローマ書13章によれば、俗権の任務とは剣による社会秩序の維持と富の再分配ということができようか。
「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。
同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。」(ローマ13:1-7)
とはいえ、国家というのは本来「創造の秩序」に属する由緒正しいものではない。ローマ書13章は専制君主制を正当化するための王権神授説の根拠にはあたらない。王権の由来を聖書に問うならば、古代イスラエルの預言者サムエルの時代に、初めて王が預言者サムエルの時代に立てられたとき、それはイスラエルの民の肉的な望みから出たことだった(1サムエル8章)。彼らは周辺の諸民族が王を持っていることがうらやましくて、王を欲した。彼らの目には、王のいる国々は戦争にも強く思え、王のあり方はその国に華を添えると映ったのであろう。本来的には、イスラエルの王は神ご自身であったが、それが肉眼には映らなかったのである。こういうことを考慮すると、ローマ書13章が手放しにこの世の剣の権能が王権神授説といったことを述べようとしていたと解釈すべきでないと思われる。
かつてナチスに協力したドイツの神学者たちは、国家というものは「創造の秩序」によるとしたそうであるが、聖書にはそんなことは書かれていない。創世記を読めば剣の権能は堕落以前には存在しなかったし、必要もなかった。悪を裁く剣の権能は、堕落後に起こったノアの大洪水の裁きの後に制定された。
「人の血を流す者は、
人によって、血を流される。
神は人を神のかたちに
お造りになったから。」(創世記9:6)
創世記の1、2章が、創造以来の人間の生活の秩序として述べているのは、七日に一度の安息日礼拝、結婚、労働の三つを挙げるべきだろう。国家は、堕落の結果、「狼の狼に対する闘争」になってしまった人間社会の現実に手当てをするために、補助的・副次的に立てられた制度にすぎない。国家の剣の権能が機能しなければ、北斗の拳のような弱肉強食の世界になってしまうからである。だから、国家はそれ自体目的ではなく、ほかの三つの制度に仕えるための手段にすぎない。つまり人々が神に礼拝生活をし、健全に家庭を営み、労働に励んで文化形成するための外的条件である安全や平和を保つことが国家の役割である。だから使徒パウロは「威厳を持って平安で静かな一生をすごすために」為政者のために祈ることを勧めている(Ⅰテモテ2:1)。したがって、いかに美辞麗句が並んでいようとも「教育勅語」に見られるような、国家=天皇を至高の価値として、国民の宗教生活・家庭・仕事をすべて国家のために仕えるものとして位置づけた超国家主義は、目的と手段を転倒した忌むべき偶像崇拝にほかならない。
国家の務めは、民が安心して宗教生活・家庭生活・仕事を営むことができるための外的条件を整えるために、暴力装置によって社会秩序を維持することと、徴税によって富の再分配を行なうことである。司法の役割は暴力装置による社会秩序の維持の一部であるということができよう。
3 国民の代行者としての裁判官2009年8月7日
国家の任務とはなにか?ローマ書13章によれば、国家は、国民の宗教生活・家庭生活・仕事がまともに営まれるための外的条件を、暴力装置による秩序維持と徴税・富の再分配によって維持することをその任務としている。司法は暴力装置による秩序維持という機能の一部だということができるだろう。警察や軍隊を国家の暴力装置と命名したのはM.ヴェーバーだそうだが、要するに、これは「法律を守らないと痛い目にあうぞ。殺すぞ。」と脅すことによって、国民に強制的に法を守らせるための道具である。そんな暴力装置がなければ、社会秩序が維持できないというのは、情けないことであるが、それが堕落した人間の構成する社会の現実であることを聖書は知っている。他人事ではない。罰則がなにもなくても、スピード違反を私たちはしないだろうか?残念ながらそうはいかないだろう。
法律に照らして有罪か無罪を判断し、かつその罪の軽重をはかって適切な罰を決定する役割をになうのが司法である。裁判員制度によって、この司法の働きの一部分を一般国民が手伝うことになったわけだ。
日本では、司法の役割は、従来、裁判官という専門の役人に委ねられてきた。国民主権の建前からいうと、国民は、立法機関・行政機関にそれぞれ国民の代表を直接・間接選挙の手続きをもって送り込むことによって、立法権と行政権という権力を間接的に行使しているわけである。司法についても基本的には、国民が、自らの代理として裁判官を立てて司法権を行使している。だから国民が最高裁判事たちの適・不適を審査するわけである。ただ、立法と行政は、国民の代表を選挙して選ぶという方法をとっているのに、司法については選挙で裁判官を選ぶという方法を取らないのは、司法の場合は高度な専門的知識を要するという認識があるからであろう。
しかし、裁判員制度が設けられることに世論の一定の後押しが出てきたのは、司法の高度の専門性に対して疑義がさしはさまれるようになったからであろう。報道を通してさまざまな裁判の結果を知らされて、首をひねるむきが多くなってきて、「国民の感覚と裁判官の感覚のズレ」がしきりに言われるなかで、裁判員制度を世論が支持するようになったということが言えるだろう。また、その「感覚のズレ」の背景には裁判官は官僚であるから、他の高級官僚と同じように己の出世が目的となっていることが、司法の判断を歪めてしまうということが、あるからかもしれない。
以前、門田隆将の『裁判官が日本を滅ぼす』という過激な内容と題名の本を紹介したことがあったが、裁判官は本来、法に基づいて公正な判断をすべきであるが、えてして官僚である彼らは出世にさしさわるような国を被告とする裁判の場合、判断を避ける場合がままあるという。また裁判官の退職後の花道つまり天下り先は大銀行の顧問弁護士なので、大銀行が被告となった裁判においては公正な判断ができない傾向があるとも指摘されていた。また、批判されないために徹底した前例主義、上級審でひっくり返されて失点とならないことに心を砕くという習性があると、著者は指摘していた。どのような影響からも独立して法に基づいて公正な審判をくだすべき裁判官であるのだが、やはり裁判官も利己的な罪人であるという現実から逃れられないのである。そういう意味では、裁判員制度が刑事事件の判断にのみ採用されているのは不適当であり、むしろ民間人が大銀行や国を提訴した民事裁判にも用いられるほうがより意義があると思われる。
4 正しいさばき2009年8月8日
「さばいてはいけません。さばかれないためです。」(マタイ7:1)この主イエスの山上の説教の断片を根拠にして、裁判員になることに躊躇を覚えたり、辞退するキリスト者がいるかもしれない。しかし、主イエスは一切の「さばき」という行為を否定していらっしゃるわけではない。事実、同じマタイ福音書18章で、主イエスは教会の兄弟姉妹を正しさばく目的とプロセスを丁寧に説明なさっている。
「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」(マタイ18:15-18)
教会におけるさばきは一般に「戒規」と呼ばれるが、その目的は、「兄弟を得ること」つまり罪を犯した兄弟が神の前に悔改めて立ち直るように導くことである。そのプロセスの詳細については、ここでは説明しない。
だから、主イエスは「さばいてはいけません。さばかれないためです。」ということばで、すべてのさばきを否定しているのではなく、間違ったさばきを否定しているのである。マタイ伝7章の文脈における間違ったさばきとは、人に対するさばきの基準は辛く、自分に対するさばきの基準は甘いという不公正なさばきである。神は公正な審判者であるから、あなたが人を量る物差しで、あなたを量り返したまう。だから神から寛容に扱われたいのならば、むやみに人のあら捜しをするのをやめて、寛容でありなさいということである。
「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(マタイ7:2-5)
私たちはえてして、自分の目の梁に気づかず、隣人の目のちりが気になって仕方がない。だが、主イエスの十字架の下で自分の目に突き刺さった梁に気づかされて取り除いたら、不思議なことに、たいていの隣人の目のちりなど気にならなくなってしまうものである。これは個人生活や教会生活において、人に対して寛容であるための秘訣を教えていることばであって、教会の務めの一つである戒規を否定したり、俗権(国家)の務めの一つである裁判を否定することばではない。
5 個人的なことと公的なこと2009年8月9日
主イエスと同じように使徒パウロも、一方で「愛は寛容である」と赦すことのたいせつさを説きつつ、正しいさばきについて説いている。教会における戒規については1コリント5章、6章を参照されたい。ではパウロはこの世の法廷についてはなにを教えているだろうか。ローマ書12章末尾から13章前半にかけて、パウロは個人生活と世の法廷における、悪に対する、それぞれの場における扱いについて語っている。
ローマ書は12章19節から21節は、個人生活において私的に復讐することを禁じ、むしろ積極的に敵に対して善を行なうことによって、平和を作ることを勧めている。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」
そして、続くローマ書13章3,4節において、神は「上に立つ権威」の剣を用いて、悪に対して報いをすると教えられている。「それは、彼(上に立つ権威すなわち支配者)があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。」
つまり、ローマ書は個人生活においては悪に対して私的復讐をすることを禁じて善をもって悪に勝てと教え、神がこの世の公的な機関を用いて悪に復讐をなさるのだと教えているわけである。聖書は、この世の裁判制度の意義をこのように認めている。
一般市民としての立場にあって、キリスト者は私的に復讐することは許されない。個人生活において私的復讐をすることは許されていない点では、裁判官も同じである。しかし、公の立場として裁判官は悪に報いるためのさばきをすることが任務とされている。私どもも、もし公的に裁判員として選ばれたならば、その裁判にかぎって「上に立つ権威」を構成する立場に身を置き、法にしたがって悪に対して復讐すること自体は間違ったことではない。
6 裁判員の抵抗感2009年8月14日
制度は発足したが、自らが裁判員となって、被告の有罪・無罪を判断し、量刑をするということに、非常な抵抗感を覚える人々も相当数いることは容易に想像できる。特に自分が参加した裁判によって、一人の人が死刑にされる場合、自分が人を殺したことになると考えると、そんな責任は負いきれないというふうに感じる人がいるであろう。人間が、全知の神ではなく、有限な知識しか持ち合わせない者であることを考えると、誤審・冤罪を免れることはできず、誤審によって他人の人生を狂わせたり、その生命を奪ったりすることになるのだから、恐怖や抵抗を感じるのは当然であろう。かりに誤審の可能性はほとんどないケースの裁判であったとしても、死刑判決の場合には、裁判員は重荷を負わねばならないだろう。
しかし、裁判員制度が存在しないこれまでであっても、社会の一員である以上は、私たちは社会秩序を維持するために、自分のやりたくない「血なまぐさい仕事」を司法に携わる人々に代行してもらってきたわけである。代行してもらっているということは、実は、自分もその仕事をしていたのである。ただそれを他人事のように思って、自覚していなかっただけである。江戸時代には、首切り役人がいて、そういう人々はえてして差別の対象とされていた。そういう差別は見当違いであって、自分のしたくないことを代行していただいて、申し訳ないと考え、感謝すべきなのであるが。今日でも死刑制度が維持されるためには、死刑執行の務めを担わねばならない人が存在し続けなければならないという現実がある。そういえば、数年前死刑執行にあたる刑務官の葛藤を描いた『十三階段』という小説を読んで、この問題の深さを思い知らされたことがある。
旧約聖書には、死刑の方法として、全会衆が犯罪人を石で打ち殺すという方法が取られたという記述がある(民数15:36など)。なんと野蛮なことかと軽々しく即断しがちであるが、私は『十三階段』を読んでから、全会衆による石打ち刑という方法の意義を悟った。全会衆による石打ちの刑は、特定の人にそういう「血なまぐさい仕事」を押し付けてしかも感謝するどころか差別するというありかたよりも、この点にのみかぎっていうならば、賢明な方法であった。石打ちの処刑に自分が参加するとき、人は、社会秩序を維持するために、自分も責任があるのだということを自覚せざるを得ない。裁判員制度には、それに通じる部分がある。
7 裁判員の適性2009年9月12日
裁判員制度との関連で刑務官について書いた。<江戸時代まで刑務官に対する差別が社会にはあったが、それは不合理なことである。古代イスラエルにおける民衆による石打の刑という処刑方法は、特定の人にこの血なまぐさい仕事を委ねるのではなく、社会構成員みながこの務めを担うという意味で意義あることであった。裁判員制度には、石打の刑に通じるところがある。>社会構成員としての責任感が大事なことはいうまでもないが、それとともにその職務に対する適性についても考慮すべきだと思われる。ここではその観点で考えてみる。
江戸時代の死刑執行人には身分や世襲ということがあったゆえに差別が生じたのであるが、現代の刑務官は身分や世襲とは無関係に、本人の意志でその職務を選択する。むしろ、刑務官は、社会正義のために悪人を罰し矯正することに使命感をもって、刑務に携わる人々であると理解すべきであろう。彼らはその職務に対する適性を持つ人々である。
こうした適性に思い当たったのは、以前読んだデーヴ・グロスマン『戦争における人殺しの心理学』(ちくま学芸文庫)という本を思い出したからである。著者は実戦経験がある米陸軍士官学校の心理学・軍事社会学教授である。第二次大戦が終わったとき、米軍では、米兵が実戦において敵兵にむかってどの程度、実際に発砲したかということを調査した。その結果、驚くべきことに80パーセント〜85パーセントは敵兵に向かって発砲していないということが判明した。これはどの国の兵士でも同じ程度だそうである。この調査をした米陸軍准将S.L.A.マーシャルは言う。「平均的かつ健全な者でも、自分と同じ人間を殺すことに対して、ふだんは気づかないながら内面にはやはり抵抗感を抱えているのである。その抵抗感ゆえに、義務を免れる道さえあれば、なんとか敵の生命を奪うのを避けようとする。いざという瞬間に、兵士は良心的兵役拒否者となるのである。」(pp82-83)
そこで米陸軍は、発砲率を15パーセントから90パーセントへ向上させる特殊な訓練を考案し、実施するようになった。その結果、ベトナム戦争では計画通りに発砲率が上がった。けれども、よく知られるように、ベトナム戦争はその後の米国社会に深刻な病をもたらした。非常に多くの帰還兵たちは精神的に病み、戦死者よりも帰還後の自殺者の方が多くなり、彼らの家庭は崩壊し、社会に犯罪が激増した。「殺人適性のない標準的人々」を訓練によって殺人ができるように一時的に改造したのだが、彼らには本性的には殺人適性がないので、心的外傷を負ってしまったのである。「殺人適性」などというと殺人鬼みたいだが、そういう意味ではない。いわば人間集団の中には「戦士型の人」とか「羊の群れの中にいて、狼に立ち向かっていく牧羊犬」のような人々がいるというのである。
この事実から考えると、裁判にも適性のある人々がいると思われる。悪を罰し、時には死刑判決を出す適性のある人々がいるのである。ところが、裁判員制度においては、適性に関係なく、くじびきで裁判員が選ばれる。すると特に裁判員として、悲惨な証拠写真を見せられたり、死刑判決を出したりした場合、それによって心的外傷を負う人々は少なくないであろう。「処刑員制度」でないだけましではあるが、適性という観点からすると、裁判員制度というのは、相当国民に無理をかける制度である。裁判員制度では、こういう問題が起こることは想定していて、臨床心理士による無料カウンセリングを5回まで受けることができることになっている。だが、やはり、裁判員選出には法律に関する素養とともに適性という観点からも、なんらかの改定の必要があると思われる。
8 裁判員制度の欠陥・・・見えないワイロ2009年8月18日
詩篇では神のことを、「みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神。」(詩篇68:5)と呼ぶ。また、出エジプト記には次のようにある。「あなたがたの神、【主】は、神の神、主の主、偉大で、力あり、恐ろしい神。かたよって愛することなく、わいろを取らず、みなしごや、やもめのためにさばきを行い、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる。あなたがたは在留異国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で在留異国人であったからである。」(出エジプト10:17−19)なぜか。みなしご、やもめ、在留異国人という社会的に弱い立場の人々は虐げられることが多く、彼らののさばきも公平に取り上げられることがなかったという堕落したイスラエルの現実の裏返しである。
裁判は、法に照らして公平でなければならないことはいうまでもない。権力者におもねる裁きをしてはらないし、逆に貧しい人だからといって、その人を特に重んじてはならないのは当たり前である。「悪を行う権力者の側に立ってはならない。訴訟にあたっては、権力者にかたよって、不当な証言をしてはならない。また、その訴訟において、貧しい人を特に重んじてもいけない。」(出エジプト23:2,3)「さばきをするとき、人をかたよって見てはならない。身分の低い人にも高い人にもみな、同じように聞かなければならない。人を恐れてはならない。さばきは神のものである。あなたがたにとってむずかしすぎる事は、私のところに持って来なさい。私がそれを聞こう。」(申命記1:17)
しかし、それにもかかわらず、聖書には圧倒的にみなしご、やもめ、在留異国人に対する配慮をせよ、彼らのために正しい裁きをせよということばが満ちており、彼らを軽んじ虐げる不当な裁きに対して神が怒りを燃やされるといわれる。ところで、神の栄光を世界にあらわす祭司の王国としてスタートしたイスラエルが、南北分裂の後、結局、南北王国とも神によって滅ぼされた理由は、預言者たちのことばによれば、二つある。一つは彼らが偶像崇拝にふけったことであり、もう一つは、イスラエルにおいて、みなしご、やもめのために正しい裁きが行なわれなくなってしまったことにある。預言者イザヤが次のように叫ばなければならなかったのは、イスラエル社会がそうした不公正な社会になっていたからにほかならない。「洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。」(イザヤ1:16 、17)「ああ。不義のおきてを制定する者、わざわいを引き起こす判決を書いている者たち。彼らは、寄るべのない者の正しい訴えを退け、わたしの民のうちの悩む者の権利をかすめ、やもめを自分のとりこにし、みなしごたちをかすめ奪っている。」(イザヤ10:1,2)
なぜ、古代イスラエルにおいて、みなしご、やもめ、在留異国人のさばきは取り上げられなくなり、権力者、富者にばかり有利な裁きが行なわれるようになったのか。そして神の怒りを買って滅ぼされるにまでなったのか。理由はワイロである。「あなたはさばきを曲げてはならない。人をかたよって見てはならない。わいろを取ってはならない。わいろは知恵のある人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめるからである。正義を、ただ正義を追い求めなければならない。そうすれば、あなたは生き、あなたの神、【主】が与えようとしておられる地を、自分の所有とすることができる。」(申命記16:19,20)裁判官はワイロを取ってはならない。また裁判官がワイロを取れない仕組みにすることが重要である。
今般スタートした裁判員制度の欠陥の一つは、ここにある。専門職裁判官の判断が過ちがちなのは、刑事事件ではなく、政府・企業・銀行を相手取った裁判なのである。なぜなら、刑事事件で強盗犯から裁判官にワイロが渡ることはまずあるまいが、政府・企業・銀行を被告とした裁判においては、見えない形でワイロと呼ばれないワイロが裁判官にわたっているからである。むろん、今日の日本で、被告から直接わたされる金品としてのワイロを受け取る間抜けな裁判官はおるまいし、いたとしても例外であろう。しかし、裁判官は国家官僚であり、政府の行動に対して違憲判決など出すことは、自分の不利益につながるので、政府の行動に関して厳しい判決を出すことはまずない。特に最高裁が政府の行動について違憲判決を出すことは、ほとんど無いに等しい。裁判官は見えないかたちで「出世」というワイロと呼ばれないワイロを政府から受け取っているからである。また、大企業・大銀行を被告とした裁判に勝ち目がないというのは、大企業や銀行の顧問弁護士になることが裁判官の退職後の花道、もっと露骨にいえば天下り先であるからである。政府を被告とする訴訟や、大企業・銀行を被告とする訴訟では、裁判官に法に基づいて厳正な判決を出すことを期待することはむずかしい。だから、政府・企業・大銀行を被告とする民事裁判においてこそ、裁判員制度が活用されるべきなのである。ちなみに最高裁では行政訴訟での原告勝訴率は10パーセント程度だという。
刑事事件の第一審にのみ裁判員制度が用いられ、「司法への国民の参加」「司法の民主化」と宣伝される今般の状況には、どうも欺瞞の臭いを感じないではいられないのである。
9 官僚裁判官の関心事2009月7日
今回スタートした裁判員制度の欠陥として、裁判官が「見えないワイロ」を受け取る政府・企業・大銀行を被告とする民事裁判においてこそ、裁判員制度が活用されるべきなのであると書いた。けれども、刑事裁判においても同様の事情があるということを、元横浜地裁判事井上薫氏がその著書において率直に述べているので、ここにその趣旨を記す。
<日本の場合、犯罪の重さに比べて刑が軽い。その理由は、裁判官の最大の関心事が自分の出世にあるからである。人事権を握る最高裁による裁判官評価基準とは、上訴されたことが少なく、上級審で逆転判決が出たことが少ないということにある。上訴や逆転判決は当事者たちが納得していないしるしと見なされるからである。そこで、上訴と上級審での逆転判決が、裁判官の最も避けたいことである。ところで、第一審において有罪判決が出たばあい、上訴をするのは、圧倒的に被告の側が多い。そこで、上訴を恐れる裁判官は、被告人に対して量刑を軽くするのである。>(井上薫、門田隆将『激突 裁判員制度』(pp162,163)参照。)
裁判官は、法律上、「独立」が認められているものの、実際には最高裁が彼らの人事権を握っているので、裁判官たちにはこういう習性が身についてしまっている。というわけで刑事事件においても、官僚裁判官は失点を避けるための前例主義による責任回避と、量刑を軽くすることによって上訴を回避するという手法が常態となっている。ちなみに井上氏は裁判員制度には基本的には反対の立場でありながら、それでも、裁判官の問題をこのように指摘しているのである。私は裁判官たちが特に保身と出世を考えている下劣な人々であると言おうとしているのではない。言いたいことは、欲得を超越していると見られがちな裁判官も、ただの人たちであるということである。そうしたアダム以来の原罪を背負った人間が裁判という務めを果たさねばならないことをきちんとわきまえて、制度を工夫しなければならないと言いたいのである。
門田、井上両氏は、本書に裁判員制度の必要性と問題点、裁判官という人々の特殊性について、たいへんわかりやすく書いてくれている。読者にも一読をお勧めしたい。
司法による刑罰には応報刑という考え方と教育刑という考え方がある。意味は読んで字の如しであるが、一応説明すれば、罪に応じて報いとしての罰を与えるというのが応報刑であり、今後、罪を繰り返さぬように教育として罰を与えるというのが教育刑である。
旧約聖書出エジプト記20章から23章においては、今で言う民事事件、刑事事件いろいろ取り混ぜられているが、刑罰には、教育的意図が皆無とはいわないまでも、基本的に応報刑の原理が貫徹していると思われる。
「人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。ただし、彼に殺意がなく、神が御手によって事を起こされた場合、わたしはあなたに彼ののがれる場所を指定しよう。しかし、人が、ほしいままに隣人を襲い、策略をめぐらして殺した場合、この者を、わたしの祭壇のところからでも連れ出して殺さなければならない。」(出エジプト21:12-14)
業務上過失致死罪と殺人罪が区別されている。
裁判における量刑の原理は、「目には目。歯には歯。手には手。足には足。やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷。」(同21:24-25)である。これを文字通りとれば同態復讐法のようであるが、当該聖書箇所の前後に記されているもろもろの判例から見ると、文字通りの「同態復讐」を意味しているのではない。むしろ、100という重さの罪を犯したら100の重さの罰を科し、60の罪を犯したら60の罰を科すべしという、応報の量刑の原則を示している。それは、裁きにおいて神の正義が貫徹されることが意図されているからである。今日の刑事事件の裁判報道を聞くと、犯した罪の重さに反して、刑罰が軽い。1人殺しても死刑にはまずならない。3人計画的に殺せば、死刑の場合があるというくらいである。これは今日の裁判においては、教育刑の考え方が相当強いことを意味している。
教育刑という考え方からいえば、死刑制度は、社会全体へのみせしめ的な教育効果はともかく、罪を犯した本人にとっては無意味である。死んでしまっては(もしこの世しか存在しないなら)教育にならないからである。死刑制度は応報刑の考え方においてのみ意味がある。
ところで、応報刑の場合、被害者の遺族の犯人に対する復讐の代行としての応報として考えることには、限界がある。被害者遺族が犯罪者の死を望んでいる場合は、刑務官は「私は遺族に代わって、犯人に死をもたらすのだ」ということで、自らの務めを正当化できるかもしれない。だが、ときおり死刑囚の被害者遺族が死刑囚を赦し、彼の死を望まず「むしろ誠実に生きることをもって罪の償いをしてほしい」と願うようになることがある。刑務官の苦悩はここにきわまる。被害者遺族が復讐を望んでいないのに、なぜ自分は犯人を殺さねばならないのかということになるからである。
聖書における罪に対する応報の目的は、基本的に神の正義の貫徹ということにある。罪に対する神の怒りの実現である。被害者遺族がそれを望もうと望むまいと、その罪によって犯された神の正義が、犯罪者を罰することを要求するのである。聖書の刑罰思想に立つならば、執行にあたる刑務官は、あくまでも神の正義の代行者として、その務めに携わることになる。したがって、言うまでもないことであるが、刑務官は神の御前に犯罪者を監禁して苦しみを与えたり、あるいは命を断ったことについて罪に問われることはありえない。刑務官はその任務を果たしたのである。
11 死刑制度の是非 その12009年8月28日
「裁判員制度を聖書で考える」という枠からやや外れるかもしれないが、やはり裁判員となった場合、非常に難しい問題であるので、ここで取り上げておきたい。国際的には死刑制度にかんする廃止の流れが強いという事実や、死刑には犯罪抑止力があるかないか、冤罪問題をどう考えるか、暴虐な独裁政権が立ったとき死刑制度が乱用されないか・・・といったさまざまな議論があるが、ここではとりあえず触れない。
旧約聖書の律法にはイスラエル国家による死刑制度が定められている。たとえば、以下のような部分。基本は「死には死」という公平の原則であり、加えて過失致死と殺人の区別がされていること、誘拐の報いと尊属に対する犯罪が厳罰であるということも注目すべき特徴だろう。
「 人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。ただし、彼に殺意がなく、神が御手によって事を起こされた場合、わたしはあなたに彼ののがれる場所を指定しよう。しかし、人が、ほしいままに隣人を襲い、策略をめぐらして殺した場合、この者を、わたしの祭壇のところからでも連れ出して殺さなければならない。自分の父または母を打つ者は、必ず殺されなければならない。人をさらった者は、その人を売っていても、自分の手もとに置いていても、必ず殺されなければならない。自分の父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。」(出エジプト21:2-21:17)
新約聖書はどうか。以前にも述べたように、ローマ書は12章18−21節で、個人の復讐を禁じて、復讐は神がなさることだと教えている。ついで、13章1節から神が立てた俗権について述べて、同4節でこの俗権は剣をもって悪をなす者に怒りをもって報いを与える務めを持つことを教えている。俗権に剣が委ねられているという以上、ローマ書は、少なくとも当時の国家権力による裁きのうちに、死刑が存在していたことを容認していたと解釈せざるをえないのではなかろうか。
「それは、彼(支配者)があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。」(ローマ13:4)
残る問題は、ローマ書が「当時の国家権力による裁きのうちに」のみならず、時代と地域を超えた普遍的な原則として、死刑制度を求めていると見なすべきなのか、そうではないのかということであろう。
12 死刑制度の是非 その22009年8月29日
ローマ書13章は、神が剣の権能を上に立つ権威に授けていると述べている以上、死刑を容認していることは認めざるを得ないと思う(他の解釈の可能性があると思われる読者はぜひコメントをください)。では、これを時代・文化を超えた普遍的原理として積極的に述べているのか、それとも、当時のローマ帝国の現状を消極的に容認しているのか。その答えを得るには、まずここで死刑が認められている目的はなんであるかを考える必要がある。
ローマ書12章末尾からの文脈の強いつながりはないと判断して、13章1節から独立したテーマとして神が立てた上の権威の役割が述べられていると理解する場合、ローマ書13章1−7節の趣旨は、神のしもべである上に立つ権威の任務は、第一に社会秩序の維持(1−5節)、第二は徴税による富の再分配である(6−7節)ということである。とすると社会秩序の維持という目的を達成するための手段として、上に立つ権威に剣が託されているということになる。だとすると、もし社会秩序の維持のために死刑制度以上に有効な方法があるならば、それを採用すればよいということになるであろう。つまり死刑についてローマ書は必須のこととして積極的には教えてはいないということになる。
しかし、ローマ書12章末尾で罪に対する個人の復讐が禁じられ、神の復讐に委ねるべきことが述べられており(19節)、そのつながりの中で13章が国家の任務を教えているとするとどうなるか。神のしもべである上の権威が悪をなす者に対して怒りをもって剣の権能を行使するのは、罪に対する正義の神の復讐の実現のためであるということになる。すると、ローマ書はかなり積極的に死刑制度を肯定しているということになる。神の正義の復讐の実現が目的であるのだから、その裁判が誤審であった場合には、神の意図されたここと正反対の結果を生むのだから、裁判に当たる者は「疑わしきは罰せず」の原則にきわめて忠実であることが求められる。
いったい、どちらの解釈が正しいのだろうか?筆者としては、文脈のつながりを強く取るか、弱く取るかについていえば、どちらも可能であるように思える。よって、この問いに答えるには、別の方面から考えなおす必要がある。
13 死刑制度の是非 その32009年9月6日
ローマ書13章4節が、少なくともその時代における死刑制度を容認していた事実は認めざるを得ない。しかし、それが積極的承認であって時代と文化を超えた通則として語られているのか、それとも、それは消極的容認に過ぎないものなのか。文脈からは、二通りの答えの可能性がある。そこで別方面から考え直してみる。
そもそも「上に立つ権威」つまり当時でいえばローマ帝国の統治機構は、実際に、神の正義の復讐を代行しうる信頼に足るものだと聖書は積極的に述べているのかということである。ローマ書13章1−7節の記述にかぎってみれば、確かにかなり積極的なニュアンスである。ローマ書は彼らは神のしもべとして、善を奨励し、悪を懲らしめているのだと言われているからである。
けれども、もう一方で、新約聖書の他の箇所は、この世の権力者たちがいかに不公正で保身に走りがちな者たちであるかということが、相当強調して記されている。たとえば福音書におけるイエスの裁判にかんして、ユダヤ最高議会が偽証者を立ててイエスを有罪にしようとしたことや、ローマ総督ピラトが保身のために裁きを曲げたことが克明に記されている。さらに黙示録13章においてはローマ皇帝が竜(サタン)に権威をもらった獣として描かれている。こうしたところを見ると、これらの上に立つ権威はとうてい神の復讐の代行者とは言いがたい。
したがって、確かに神は上に立つ権威に死刑の権限を委ねてはおられるのではあるが、これを無制限に容認しているわけではないと判断すべきであろう。上に立つ権威は神のしもべであるとはいえ、えてして間違うこともあり、時には暴走することさえもある。それゆえ冤罪を防ぐために適切に司法を審査し、制限をする仕組みが必要であることになる。警察・検察の取調べの可視化、再審制度のさらなる整備ということだろうか。