苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

戦争観の推移と聖書の教え

序 

 米陸軍士官学校教授D・グロスマンは、現代の軍隊は殺人ができるように特殊訓練を施された組織であると語る。第二次大戦後の米陸軍の調査によれば、遭遇戦では兵士のうち15~20パーセントしか敵に向かって発砲せず、大半は地面や空に発砲していた。また98パーセントの人には殺人について適性がないので、人を殺すと心的外傷が遺ってしまうことが判明した。

 そこでベトナム戦争では米陸軍は兵士に、洗脳的訓練を施して、敵への発砲率を90パーセントに引き上げたが、それによって大量の兵士が心的外傷を受けた。適性がないのに、殺人をしたからである。その結果、心的外傷を受けた帰還兵の家庭は崩壊し、自殺と犯罪が激増した。こうしてベトナム戦争後米国社会の荒廃が生じた。

 堕落後の世界では、仮にやむを得ない戦争があるとしても、本来、人は隣人を愛するために造られており、殺すために造られてはいないことをはじめに確認しておく。本稿では、前半で戦争観の歴史的推移を、後半で聖書の戦争観について述べたい。

 

Ⅰ 戦争観の推移

1  コンスタンティヌス以前

 福音書使徒の働きには敬虔な百人隊長の記事があるが、その後、紀元170-180年頃までに軍隊にキリスト教徒がいたという証拠はない。それは当時キリスト教徒の大半は軍務の対象外の奴隷や解放奴隷であったからであろう。ローマ軍は自由民の兵士によって構成されていた。172年にキリスト教徒が軍隊にいた証拠と兵役忌避の例が現われる。

 異教徒ケルソスは178年にキリスト教徒の軍務拒否を批判して次のように述べる。「もし万人がキリスト教徒のようなことをしたならば、すなわち、軍務を拒否したならば、皇帝は孤立無援となり、世界の事物はもっとも無法粗暴な蛮族の手中に陥るであろう。」

 テルトゥリアヌスは、皇帝宛の前期護教的著作で信徒が忠実な市民として兵役についていると言うが、後期の著作では信徒の兵役に反対している。「信仰に入って洗礼を受けたならば、多くの人がしたように、直ちに兵役を去るか、それとも、兵役についていないときでも許されないようなことを神に逆らって犯さないために、あらゆる種類の逃げ口上を言うか、さもなければ最後に、市民の信徒でもやはり受け入れるべき運命(殉教)を神のために耐え忍ぶかしなければならない。」(『兵士の冠について』11:4)

 キリスト者が兵役を拒否した理由は何であろうか。ディオクレティアヌス帝(在位280-305年)がキリスト教徒を軍隊から一掃するため処刑した理由は、皇帝と神々への崇拝を伴う兵士の宣誓を拒んだからであった。二人のキリスト者兵士の記録を紹介しよう。ガッリエヌス帝治下、マリヌスという士官が処刑された。彼が百人隊長に昇進しようとしたとき、他の兵士が、「彼はキリスト教徒であり、皇帝たちに犠牲を捧げていない。したがって、古くからの慣習法により、彼はローマ人の位階につくことはできない」と法廷に訴えた。総督はマリヌスを惜しんで棄教を求めたが、マリヌスが拒否したので処刑した。とはいえ教会は軍隊にキリスト者がいるということにある程度寛大で、帝国政府側としては、皇帝崇拝拒否が処刑理由だった。

 21歳のマクシミリアヌスは徴兵を拒否して処刑された。295年3月12日、テウェステで彼は新兵として徴募されたが、「キリスト教徒だから兵役につくことはできない。悪いことはできない。私はキリスト教徒です。」と主張した。その結果、総督は兵役侮辱の罪、宣誓拒否という不服従の罪でマクシミリアヌスを処刑した。

 このようにミラノ勅令(313年)より前の時代、軍務を拒否したキリスト者たちが何人もいた記録はあるが、平和主義が理由であったかどうかは不明瞭で、皇帝とローマの神々への崇拝を含む宣誓拒否が明確な理由であった。

 

2  コンスタンティヌス

(1)アルル教会会議314年8月

 コンスタンティヌス帝のミラノ勅令(313年)以前に、教会側で信徒である兵士が取るべき態度について何かを取り決めた記録はない。ミラノ勅令の翌年、アルル教会会議の第三決議で次のようなことが決められた。

 De his qui arma proiciunt in pace, placuit abstineri eos a communione.

 直訳すれば「平和な時に武器を捨てる者たちに関しては、彼らは聖餐の交わりを控えるべきことを定めた。」となる。だが解釈には諸説ある。Cadouxはラテン語arma proicereは「他人に武器を投げる」、in paceは「武器を用いる必要がないとき」と解して、キリスト教徒に剣戦技への参加を禁止した取り決めだとする。J.Hefeleは「国家と教会との間に平和が支配しているので、キリスト教徒の兵士は義務を果たすべきであり、脱走兵は教会から処罰される」と解釈する。R.Baintonは、「キリスト者は警察力として働くことだけが職務とされるような平時には、武器を捨ててはならない。しかし、戦時には軍籍を捨てても良いということである。」と解釈する。いずれが正解かを断定できないが、キリスト教会が体制内の宗教となって以降、体制を維持するための軍務に異を唱えにくくなったことは想像に難くない。416年にはテオドシウス二世はキリスト教徒のみでローマの軍隊を編成した。

 

(2)アウグスティヌスの合法的戦争論(英just war theory)

 アウグスティヌス(354-430年)は戦争について具体的文脈においてしばしば語っているが、その考えを体系化してはいない。ここではドナトゥス派から出た過激集団キルクムケリオーネスと関連して論じているところを説明したい。一般にjust war theory(正戦論)と呼ばれるが、「聖戦」と混同されないために、本稿ではむしろ正当化される戦争という意味で合法的戦争という語を用いる。キルクムケリオーネスは北アフリカの農民たちで、帝国の迫害下でもキリストを信じてきた人々だった。ところがキリスト教が公認されると、富裕層が次々に改宗して教会に世的風俗を持ち込んできた。そこで彼らはこの富裕層に暴行・略奪を働き、これを聖戦と見なし戦死者を殉教者とみなすようになった。そこで司教アウグスティヌスはやむなく当局に軍隊を要請した。アウグスティヌスが言う合法的戦争の条件を三つに整理すれば、<第一に、戦争の目的が正当でなければならない。領土的野心が目的ならば不当な戦争である。第二に、個人的復讐は非合法であり、合法的権力によって実施されなければならない。第三に、暴力は不可避だが愛の動機が中心でなければならない。>ということである。もっともキルクムケリオーネスの鎮圧は国家間の戦争でなく国内の治安活動だった。近世まで兵士は国内の治安活動と対外的戦闘の両方を担っていた。戦争はある条件下で正当化されうるという考え方は、現代に至るまで続いている。

 

(3)十字軍の実態

 コンスタンティヌス大帝以来、キリストの名において行われた戦争が数多くある。中でも十字軍は1096年教皇ウルバヌス二世が聖地奪還を掲げて始めたものであり、合法的戦争というより「聖戦」としての意識が強かった。9回も繰り返された十字軍(クルセード)の実態は残虐で領土的・経済的野心に満ちていて、十字軍はイスラム教徒ばかりか、ユダヤ教徒、東ローマ教会信徒をも虐殺し、いくつかの十字軍国家を設立した。しかも西方教会は、十字軍は英雄的な壮図であったという幻想を長年抱いてきた。

 

(4)ルター

 ルターは著書『この世の権威について』で、人が剣をどのようにキリスト教的に用いるべきかについて聖書解釈を示している。人類には神の国に属するわずかな真のキリスト者と、この世の国に属する大多数の人々がいて、神は前者を福音によって、後者を法と剣によって統治する。前者は自発的に善を行うので法と剣による強制は無用であるが、後者には法と剣による強制が必要である。真のキリスト者は自分に関しては不正を甘受するので法と剣は不要だが、隣人に加えられる不正は隣人愛ゆえに甘受しないから、真のキリスト者が刑吏や裁判官の職について、隣人愛を動機として悪者に対して剣と法を行使することは合法的であるとした。

 またルターによれば、真のキリスト者の君侯は上位の君主(皇帝や国王)の横暴は受忍すべきであるが、同等または下位の者から戦を挑まれた場合は、まず相手に正義と平和を申し出るが、それでも相手が攻撃してくる場合には、悪を罰する戦争は愛のわざであるとした。だが君侯が正しくない場合には、その下にあるキリスト者は人に従うより神に従うべきであるから戦に加わってはならない。だが君侯が正しいのか正しくないのかが分からない場合には、君侯に従って戦ってよいとした。

 ルターの考え方の特徴は三つある。第一は、真のキリスト者の戦闘行為は隣人に対する不正を罰するための愛の行為である。第二は、キリスト者は上位の権威に従順であるべきだ。だが第三に、上位の権威の服従には限度があるということである。

 

(5)メノー派

 十六世紀宗教改革の時代にチューリッヒのツヴィングリは市当局と一体になって教会改革を推進したが、それに反対して袂(ルビ:たもと)を分かったメノー・シモンズは教会は政治から分離すべきだとした。彼らは聖く傷のないキリストの花嫁としての教会を志向したので、名ばかりのキリスト教徒を作り出しがちな幼児洗礼を無効とし、信仰告白に基づく浸礼のみを有効であるとした。また彼らは、俗権は社会秩序を維持するために必要なものであると考えてはいたが、真のキリスト者は刑吏や裁判官や兵士になるべきではないとした。それは、右の頬を打たれたら左の頬を向け、敵をも愛する無抵抗主義を貫くためである。だが当時、幼児洗礼否定と再洗礼はユスティニアヌス法典で重罪とされており、兵役拒否は社会秩序を否定することを意味したから、メノー派は異端と見なされ多くの信徒が処刑された。

 ルターにおいて、人は教会秩序・社会秩序以前に個々に神の前に責任を問われるという理念が萌芽したが、メノー派はそれをさらに徹底したのである。メノー派がクエーカー、ブレズレンの信徒たちとともに良心的兵役拒否の権利を認められるようになるのは二十世紀になってからである。

 

(6)近現代の戦争──国民国家愛国心軍産複合体

 ヨーロッパでは近世まで政治と教会とが緊密に結びついていたので、旧教国・新教国が入り乱れて三十年戦争(1618-1648年)があった。三十年戦争で諸国は宗教戦争に辟易して、終結のためのウェストファリア条約は領邦ごとに宗教を決めれば良いとした。以後、国家は教会を徐々に離れていく。これを国家の世俗化という。

 では、近代国家に宗教性は無いのだろうか。封建制において庶民にとっての殿様とは領主であって国王は遠い存在であり、戦争に携わるのは王の直属兵と領主の兵士であって、戦争は庶民の携わることではなかった。しかも、領土と民は王の所有であり、王がなす戦争と結婚によって国境はたびたび動いたので、国民意識は育たなった。ところがフランス革命によって王と領主階級(中間組織)が消滅すると、庶民は中央政府と直結する「国民」になり、ここに「国民国家」が成立した。政府は周辺諸国から押し寄せる反革命軍に対応するために「国民軍」を編成し、そのために「国民教育」を行い「祖国」「愛国心」を称揚した。こうして近代、「国民」にとって「祖国」はいのちを献げるに値する至高の価値とされるようになる。フランス革命ロベスピエールは理性を神格化した宗教の創立を企てた。これは失敗に終わったものの、国民国家において愛国心が疑似宗教であることを示している。明治政府による国民学校、徴兵制、国家神道もこの文脈の中にある。

 近代になり戦争の性質も変化した。かつて戦争は領主階級のものだったので戦闘の規模に限界があったが、国民国家では兵員供給がある意味無尽蔵となり、戦争は総力戦となった。さらに現代は核兵器化学兵器が登場して戦争の悲惨さは増大した。また戦争で莫大な利益を得る軍産複合体マッチポンプ式に戦争を焚きつけている。兵器は戦争が無ければ消費せず旧式化するので、軍需産業は定期的に戦争を必要とするからである。こんな時代、「合法的戦争」と言える戦争がどれほどあるだろうか?

 

Ⅱ.聖書は戦争についてどう教えているか?

1 旧約時代の戦争

 第六戒に「殺してはならない」とあるが、旧約聖書は絶対的な意味で人を殺すことを禁じているわけではなく、律法には死刑制度があった。たとえば、「人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。」(出エジプト21・12)「自分の父または母を打つ者は、必ず殺されなければならない。」(同21・15)「人を誘拐した者は、その人を売った場合も、自分の手もとに置いている場合も、必ず殺されなければならない。」(同21・16)つまり、神は個人が人を殺すことを禁じているが、公権力に対してはある種の罪に対する罰として死を報いる務めを与えていた。

 では、律法はイスラエルが他国・他民族に対して行う戦争については、どのように教えていただろうか。主はモーセに20歳以上の男子を氏族ごとに軍団を編成させ(民数1・3参照)、通常の都市包囲戦に際しては、まず相手に降伏を求め、聞き入れない場合には戦い、勝利後は敵を苦役につかせた(申命記20・10-14参照)。

 だが、カナン征服における戦争は、通常の戦争とは異なる原則が適用された。主はイスラエルを腐敗させる危険があるカナンの先住民の皆殺しを命じた(申命記20・15以降参照)。フォン・ラートは古代イスラエルの戦争は聖なる祭儀、聖戦であったとしたが、その後の研究者たちは「聖戦」という呼び名は不適切で、むしろ「主の戦い」と呼ぶべきだと修正を加えた。M・クラインは、アブラハムの子孫にカナンの地を与えるという約束を成就するにあたって、神は通常の倫理的要件を一時的に停止して、最後の審判の倫理原則を侵入させていることを率直に認めるほかないとしている。確かにカナン征服における聖絶は、ノアの大洪水、ソドムとゴモラの滅亡、あるいは最後の審判に匹敵する「主の戦い」であったと解するほか正当化することは不可能であろう。また、神が異教国アッシリアを「怒りのむち」(イザヤ10・5)としてイスラエルを懲らしめたが、アッシリアはそれを自覚していたわけではない。

 新約時代に「主の戦い」はありえない。それは、旧約時代はイスラエルだけが神の民だったが、新約時代には神は世界のあらゆる民族からご自分の民を召しておられるからである(マタイ28・19参照)。教会は世界中の民族・国家の垣根を越えた神の家族であるから、ある自称「キリスト教国」が聖戦だとして他国・他民族を打つ権利を持ってはいない。十字軍、インディオスの破壊などは「主の戦い」ではなかった。

 

2 新約時代における戦争の問題

(1)新約聖書

 主イエスは、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5・44)と教え、ゲツセマネの園で敵に剣を振るったペテロに、「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」(同26・52)と警告した。パウロが罪深い世界を描写して、「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。」(ローマ3・15-17)と言ったように、戦争は一般に悪である。新約聖書の教えは確かに平和を基調としている。

 だが、いくつかの聖書箇所を見るならば、新約時代の倫理が絶対非戦の立場であるとは断じがたい。日本キリスト改革派教会信条翻訳委員会1964年訳『ウェストミンスター信仰告白』23・2が合法的戦争の根拠とする箇所は、ルカ3・14、ローマ13・4、マタイ8・9,10、使徒10・1,2,黙示録17・14、16である。ルカ3・14は洗礼者ヨハネが悔い改めた兵士から「自分はどうすればよいのか」と問われたときに、「兵士をやめよ」とは言わなかった記事である。しかしヨハネは旧約最後の預言者だから、これは新約の倫理とは言えない。黙示録17・14、16は獣の国が大淫婦を滅ぼすという記事だが、これは悪者の同士討ちを述べた箇所であるから、やはり戦争が正当化される根拠とは言いがたい。

 主は百人隊長の信仰を賞賛し(マタイ8・9,10参照)、使徒の働きには敬虔な百人隊長コルネリウスが取り上げられている(使徒10・1,2参照)。主と使徒は、イエスを信じる彼らに兵士をやめよとは命じていない。もっとも、当時兵士の務めは平時の警察の役割と、戦時の戦闘員の役割を兼ねていたから、R・ベイントンのように、キリスト者には平時に警察官となることは許されるが、戦時には軍籍を捨てよという意味に解することも不可能とは言えないが、かなり苦しい解釈だろう。

 

(2)個人的復讐の禁止と俗権の役割

 もう一つ、ルターと同じように『ウェストミンスター信仰告白』が採り上げている合法的戦争の根拠は、ローマ13・4「彼はあなたに益を与えるための、神のしもべなのです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。」という俗権の剣の権能について述べた箇所である。この箇所は直前の個人的復讐の禁止に直結している。

 パウロはローマ書12~15章でキリスト者の倫理を説いて、第一に12章1、2節でキリスト者の全生活が神礼拝であると語り、第二に3から8節で教会生活においてそれぞれ分に応じて奉仕すべきことを教え、第三に9から21節で愛の倫理を説く。この愛の倫理の中で、自分自身に関しては悪者から受けた被害については、復讐は神に委ねて、善をもって悪に打ち勝つようにと命じている。「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する者たち、自分で復讐し(希:エクディケオー)てはいけません。神の怒り(希:オルゲー)にゆだねなさい。こう書かれているからです。『復讐はわたしのもの。わたしが報復する。』主はそう言われます。次のようにも書かれています。『もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。』悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12・17-21 傍点筆者)これは主が山上の説教で教えられた「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5・44)と軌を一にしている。ここまでは、「自分に関することについては」とあるように、キリスト者の個人としての倫理について教えられたことであると解される。

 ところで愛の倫理の中で「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」という申命記32章35節からの引用を根拠として、「神の怒り(希:オルゲー)にゆだねなさい」とパウロは命じている。悪者に対しては、神が復讐し(希:エクディケオー)てくださるから神に委ねよというのである。では、神は具体的にどのようにして悪に復讐なさるのか。究極的には最後の審判においてだが、今の世における神の復讐については、続く13章に書かれていると解される。そう解釈すべき根拠は、13章4節が、12章19節を下敷きにして記されていることである。

「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は自分の身にさばきを招きます。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐ろしいと思いたくなければ、善を行いなさい。そうすれば、権威から称賛されます。彼はあなたに益を与えるための、神のしもべなのです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒り(希:オルゲー)をもって報います。」(ローマ13・1-4 傍点筆者)

 4節傍点部を直訳すれば、「神のしもべである彼は、悪を行う人に怒り(希:オルゲー)を報いる復讐者(希:エクディコス)である。」となる。エクディコス(復讐者)は12章19節の動詞エクディケオー(復讐する)と同根である。このように用語の一致からも明らかなように、13章4節は12章19節を下敷きにしている。神は俗権に剣の権能を託し、俗権は社会秩序を維持するために法と剣によって悪者を罰する。だから、個人としては神に復讐は委ねて、悪者に対して善をなせと12章では勧めているのである。

 

(3)治安維持・自衛・侵略

 ローマ書13章4節で用いられる「剣」というギリシャ語は「マカイラ」ということばで、平時において兵士が治安の維持という警察任務のために用いた短刀を意味し、戦時に用いる太刀は「ロムファイア」といって、例えば七十人訳聖書でダビデゴリアテから奪った剣を表すのに用いられている(Ⅰサムエル17・51参照)。したがって、ローマ書13章1-7節でパウロが直接に教えていることは、キリスト者は社会秩序を維持している警察権を重んじ、また納税についても誠実であれという意味であると理解することができる。

 では戦争の場合はどのように考えればよいのだろうか。ローマ帝国の時代、頻繁に国境線を脅かしてくる、ローマ側から言えば野蛮人であったゲルマン民族ケルト民族その他との戦争があり、また帝国に吞み込まれた諸民族による独立紛争もあちこちで起こったから、国内の治安を維持するためにも、兵士たちはロムファイアで戦う必要もあっただろう。他国の軍隊の侵入、あるいは国内での民族紛争を放置すれば社会秩序が破壊されることになるから、公権力が剣の権能をもって侵略を防ぎ暴徒を鎮圧することは、合法的な行為である。

 だが他国を侵略する戦争は、その国の社会秩序を破壊することであるから、国家規模の第十戒、第六戒、第八戒の違反、すなわち貪欲と強盗・殺人の罪にあたる。したがって、正当でありうるのは明白に自衛の場合に限られる。

 もっとも歴史上、権力者が常に大義名分を掲げて戦争してたことは周知の事実である。例えば、米政府はメキシコに不法移住していた自国民の独立と自由のための戦いと称してメキシコ軍と戦ってテキサス州を奪い取った(米墨戦 1846-1848年)。日本がかつて米英と戦争を始めたのは、大陸における権益を自衛するためであるとし、また貪欲な欧米列強から東アジアを解放するための正義の戦争であると主張した。今日ウクライナに侵攻したロシアの言い分は、迫りくるNATOの脅威に対する自衛であり、ウクライナのネオナチ勢力の迫害からロシア系住民を解放するためであるとする。実際には、その時代、その国の中にあって真相を見抜くのは容易なことではない。

 

(4)天の国籍と地の国籍

 イエスは父なる神にこう祈られた。「わたしがこの世のものでないように、彼ら(弟子たち)もこの世のものではありません。真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」(ヨハネ17・16-18 括弧内筆者)キリスト者はこの世の所有でなく神の所有であるが、地に派遣されている者として、地に埋没せず天的な生き方をするときに、地の塩、世の光としての役割を果たすことができる。

 共通恩恵のレベルにおいては地もまた神のものであるから、キリスト者は遣わされた地の国にあって、責任をもって生きるべきである。すなわち、権力を持つ高い地位にある人々を尊重し納税の義務を果たし(ローマ13・1-7参照)、彼らのために願い、祈り、とりなし、感謝をささげるべきである(Ⅰテモテ2・1参照)。さもなくば、権力者は傲慢になって悪魔の影響を受けて戦争を始めるかもしれない(黙示録13・2参照)。もしそんなことになれば、私たちは敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送ることができなくなる(Ⅰテモテ2・2参照)。キリスト者は、剣の権能を託された権力が、悪魔の誘惑に負けて傲慢にならず、神のしもべとしての分をわきまえて、社会秩序の維持と国民の福利のために働き、民を愛し平和を愛するように祈らなければならない。

 現代世界は過去に比べれば為政者に関する情報がはるかに得やすい時代である。もし権力者が、侵略戦争を始めたと判断される場合には、キリスト者としての神の前の良心のために、戦争に協力してはならない。地の国の義務と天の国の義務とが矛盾する場合には、天の国への忠誠を優先してこそ世の光・地の塩である。ユダヤ最高法院が使徒たちにキリストの福音を伝えることを禁じたとき、使徒たちは最高法院の権威を尊重して丁寧に、しかしきっぱりと「人に従うより、神に従うべきです。」(使徒5・29)と宣言して伝道を続けた。

 国家が絶対化され「祖国」と呼ばれる国民国家の近現代の風潮の中では、横暴な権力者が始めた不当な侵略戦争であっても、これに反対すれば非国民という誹(ルビ:そし)りを免れないだろう。だが、天に国籍を持つキリスト者は、神の前の良心を眠らせて盲目的に国家を崇拝し、国家にいのちを捧げてはならない。それは偶像崇拝である。私たちに地上のいのちを賜ったのは、国家ではなくイエス・キリストの父なる神である。私たちがいのちをささぐべきお方は、真の神以外にはない。