苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

パウロに見る俗権理解と活用(KGK夏季学校分科会 その3)


    可憐でしょう。ニラの花です。


「ると、パウロはこう言った。『私はカイザルの法廷に立っているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。あなたもよくご存じのとおり、私はユダヤ人にどんな悪いこともしませんでした。もし私が悪いことをして、死罪に当たることをしたのでしたら、私は死をのがれようとはしません。しかし、この人たちが私を訴えていることに一つも根拠がないとすれば、だれも私を彼らに引き渡すことはできません。私はカイザルに上訴します。』
そのとき、フェストは陪席の者たちと協議したうえで、こう答えた。『あなたはカイザルに上訴したのだから、カイザルのもとへ行きなさい。』」(使徒25:10-12)

 使徒パウロは、裁判にかけられたとき、あえてその判決を不当としてローマ皇帝に上訴する決断をした。その決断にしたがって、パウロは囚人として船でローマへと護送されることになる。当時、ローマ帝国は属州の住民たちにも一定の義務(納税)を果たすならば、ローマ市民権を与えていた。パウロの家は資産家の家であったらしく、彼は生まれながらのローマ市民だった。パウロは、その市民権のひとつとしての上訴権を行使したのである。
 パウロの意図はあきらかである。彼は主イエスが彼に与えた異邦人への使徒としての任務を果たすために、どうしてもローマに行き、ローマ皇帝にもキリストの福音をあかししたかったのである。そのために、彼はあえて皇帝に上訴する道を選んだのである。それは主イエスのご計画だった。かつて主イエス使徒たちに次のように言われた。
「だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。」(マルコ13:9,10)
 このパウロの行動は、ローマ帝国政府の立てたローマ法というものに一定の権威を承認していることを意味している。パウロは、ローマ人への手紙13章において、国家の権威というものの意義について肯定的側面を述べている。
 「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。」(ローマ13:1-7)
 パウロによれば、まことの神を知らないローマ帝国政府であっても、その権威は神によるのだということになる。ただし、注意すべきは、これはいわゆる王権神授説を支持しているのではないということである。昨日書いたように、国家権力は毒を制するための毒にすぎない。やくざのドスを取り締まるための警察官の拳銃である。
 国家の務めについて、パウロは2点のみ挙げている。第一は今書いた剣の権能。警察権である。これをもって社会の秩序を維持するために、国家権力は立てられている。第二は、徴税権である。これをもって富を再分配する務めを国家は負っている。つまり、国家の業務は世俗的な領域にかぎられているのである。
 だが、そうだとすると、現代の国家はずいぶん肥大化しているように見えないだろうか。(つづく)