苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖書を原語で読む意味って・・・

 プロテスタントの神学校は、宗教改革の伝統に則って、聖書の原語、原典釈義を大切にする。16世紀の改革者たちはローマ教会のウルガタに基づいて論じる学者たちに対して、ギリシャ語、ヘブライ語の聖書を引用して論じたそうである。神が、これらの言語をもちいて聖書を霊感なさったのであるから、その言語に基づいて釈義をすることが有益なことはいうまでもない。

 しかし、ギリシャ語やヘブル語ができれば、イエスを知り神様を知ることができる・・・というわけでは必ずしもないのが面白いところである。そもそもイエス様の話したことばはギリシャ語ではなかった。イエス様が何語を日常話されたかについては学者によって意見が分かれるようだが、たぶん日常的にはアラム語を使っていて、故郷ナザレの会堂で律法の朗読をして説教をしたところを見るとヘブライ語をも用いられたようである。(ルカの本文は七十人訳ギリシャ語聖書イザヤ書からの引用なのではあるが。)そもそもラビの一人と見なされたイエス様がヘブライ語をお用いにならなかったということは、到底ありえない。
 使徒パウロはどうだったか。使徒の働きに、パウロエルサレム神殿ヘブライ語で話し始めたら、それまで怒号を発していた人々が一斉に静まったという記事がある。ユダヤ人たちは日常はアラム語を用いていて、彼らにとってヘブライ語は荘重な感じがする先祖伝来のことばという印象があったからだろう。つまり、イエス様もパウロも、日常的にはアラム語を用い、あらまった時にはヘブライ語を用いたのだろう。だが、パウロは手紙を書くときにはギリシャ語を用いて口述筆記させ、福音書記者たちもギリシャ語を用いた。それはギリシャ語(コイネーギリシャ語)が地中海世界で広く用いられていたからで、宣教的意図をもってのことである。
 イエス様の話されるアラム語の説教が書き残されていないのは残念な思いがするけれども、そこには神様の意図がおありなのだろう。またイエス様がアラム語で話すお話をじかに聞いたら、人はイエス様を信じられるというわけではないことは福音書を見れば明白である。聖書原語を学ぶことは、聖書の一言一句が聖霊の導きによると信じる教会にとっては、たいへん有意義なことである。だが、聖書原語がわからなくても、聖なる御霊は信じる者に、ちゃんとイエス様のことばを伝えてくださる。不思議なこと、ありがたいことである。