苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖書協会共同訳のローマ書は、小見出しによる文脈操作をしている。

 聖書本文には本来、章・節・段落はついていなかった。だから、聖書を読むとき、いったんは、章節段落は無いものと意識て読むことが大事だと神学生の時、M先生に教わりました。印象深く残っている例は、マルコ12章41節から13章2節です。レプタ2つのやもめの記事とヘロデが権力誇示のために奉献した神殿崩壊の予告記事はつながっているのです。神の前に価値あるささげものはなにか、ということをこのつながった文脈はコントラスティヴに教えていますが、その理解を章分けがじゃましています。
  小見出しがついた聖書も、この点、注意すべきですね。小見出しは読者の便利のためにつけられるのでしょうが、あきらかに翻訳者による文脈操作と見える場合もあります。今回の聖書協会共同訳でも気になるところがあります。T兄が教えてくださったのですが、ローマ3章のピスティス・イエースー・クリストゥーを従来のほとんどの訳のように「イエス・キリストを信じる信仰」と訳すか、サンダースが提案したように「イエス・キリストの真実」と訳すか、議論のある箇所です。聖書協会共同訳はサンダース案を採用し、しかも、(ここが問題なのですが)21-26節には「神の義が実現された」と小見出しを付け、27節から31節には「信仰による義」と小見出しを付けて、文脈を分断しているのです。
 翻訳者の意図は、おそらく21-31節がつながっていると、22節のピスティス・イエースー・クリストゥーが、「イエス・キリストを信じる信仰」と訳さねばならなくなるので、ここからは新しい話題なのだとして読ませるために分断したということでしょう。
 とりあえず、章・節・段落・小見出しは無いものとして聖書を読むこと。そして、「イエス・キリストの真実」「イエス・キリストを信じる信仰」はギリシャ語本文では、どちらにも訳しうることを知っておいて、文脈のなかでどちらが適切な訳語か考えるのが賢明だと思います。

<追記>
 パウロはローマ書1章から5章はキリストの贖罪を根拠とする信仰による義を、6章から8章まではキリスト(の真実)への参与というテーマを書いています。ですが、サンダースはその事実を認めながらも、6-8章こそがパウロ神学の核心だという主張をもっています。それで、後半部の理解を3章にまで持ち込んで、間違ったんじゃないかという風に、私は理解しています。
 
<追記2>こちらも参照

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