苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

哲学書、文学書であっても

 哲学書を読み始めようとするとき、岩波文庫に入っている哲学書をちらちら見てもさっぱりわからなかったので、哲学辞典が必要だと感じた。そして指導くださる飯塚勝久先生に「哲学辞典を買わないといけないでしょうか。」とおたずねしたところ、「いや、哲学辞典には通り一遍のことしか書かれていないものです。哲学者というのは、自分の思想を表すために、その用語に独特の意味を込めるものなのです。ですから、哲学辞典は要らない。自分の脳をしぼって、その哲学者の書物を繰り返し読んでいくことによって、その思想を読み取り、哲学者がその用語に託した意味を理解することが大事です。」とおっしゃった。

 自分の置かれた時代、それ以前の時代のありきたりの思潮には満足できず、新しい思想を紡ぎ出してこそ、哲学者なのであろう。その用語法も時代を超えたものであることが特徴である。文学にしてもそうである。若い日に川端康成『雪国』を読んだとき、平明なことばを用いてはいるけれども、なんと清新な、けれども奇をてらった風でもない日本語表現であろうかと感じた。オリジナリティのある哲学書にしても文学書にしても、単に時代の文化や言語から生じたものとは、言えない。

 人が書いた文学書・哲学書においてすら、そうなのである。まして神が人を記者としてもちいて啓示なさった聖書が、単のその時代の文化・言語から生じた産物であるという見方は、皮相な見方である。バビロンの神話、カナンの神話とのほんのちょっとした類似性から創世記を読み込む人々、ヘレニズムとの皮相な類似からヨハネ文書を読みこむ人々、同時代のユダヤ教との類似性から新約聖書を読みこむ人々はいずれも、聖書の本質には決してたどり着くことはできまい。

 飯塚先生風にいうならば、聖書は、神がご自分のメッセージを表すために、その用語に独特の意味を込めたものである。だから私たちは自分の脳をしぼって、しっかり御霊の照らしを求めて祈りつつ、文脈をわきまえて聖書を繰り返し読んでいくことによって、その思想を読み取り、用語の意味を理解することが聖書解釈において最も大事なことであると私は思う。