苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖書解釈:当該本文を文脈の中で繰り返し読むこと

 秋から、神学生たちの説教釈義とその釈義に基づく説教を聴いて批評するつとめについている。神学生たちは、指定された箇所のほんの数節のギリシャ語本文を、辞書と文法書と首っ引きで分析するのであるが、その結果が、あまり芳しくない。細かく調べれば調べるほど、当該本文が文脈の中で意味していることが見えなくなってしまう傾向がある。

 たとえばワードスタディについていえば、ある語について辞書を調べると、その語は聖書の中で何回用いられており、いくつかの意味を持っていることがわかる。さらに大きな辞書には、聖書周辺の歴史の中で担ってきた複数の意味が提示されている。そういうにわか知識が頭に入ってくると、連想ゲーム状態に陥って、当該の聖書箇所においては実際にはまったく関係のない語義が気になって、「こんな解釈の可能性もある」「あんな解釈の可能性もある」となってしまうことがある。

 もしワードスタディをするならば、まず当該箇所の前後の文脈における意味(超重要)、次にその巻の中でのその語の用法(最重要)、次に、同一聖書記者による書物におけるその語の用法(重要)、そして、広く聖書啓示の歴史の中における用法(参考)を調べる。もちろん近所の意味を優先にするのが原則である。例外として、たとえば「恵みとまこと」「幕屋―神殿」のような聖書の啓示の歴史での重要語の場合は別である。とにかく、語の意味はその文脈内で決まるのである。いわゆる語源の説明は無意味である。辞書は有用だが辞書で連想ゲームをしてはいけない。

 ほかにも動詞の時制・アスペクト(様相)の意味の取り方や、語順による強調、主語代名詞挿入による強調、分詞構文の意味の取り方、ヘブライ的並行法などいろいろな要素があって、そのどこかにひっかかって、文法書など引っ張って来ていろいろ考えると、ひっかかったことがらが意識の中で肥大化してしまうことがある。そして当該本文の幹と枝と葉っぱの区別がなくなって、説教になると葉っぱや枝が幹よりも太くなって、わけのわからない話になってしまうということもある。

 こうした事態を避けるためには、どうすればよいか?当該聖書箇所の前後の2章程度を少なくとも10回くらい注意深く読むのがよいと思う。また、当該聖書箇所を含む巻全体を読むことである。ギリシャ人のようにギリシャ語をスラスラ読める人ならば、もちろんギリシャ語で読めばよいのだが、そんな人は少ないだろうから、邦訳聖書でよいから注意深く10回読めば、見当はずれな読み間違えはしなくなるだろう。この頃、神学生たちにこのことばかり奨めている。新共同訳は1年間、毎朝、ヘブル語本文と照合しながら読んだことがあるが、独自の翻訳を意識しすぎたようであまり信用できないと感じた。これに対して新改訳は文体としてエレガントではないけれど、原文が透けて見える翻訳を志しているので、じっくり繰り返し読むことに意味がある。