苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖書理解と実証主義の問題

 いわゆる近現代神学は、現代的課題への対応、または現代思想を聖書解釈に応用するということをします。それはともすると古代においてグノーシス派がギリシャ思想で聖書を読もうとして陥ったのと同じように、一種のシンクレティズムになってしまうのではないかと思います。ヘーゲル弁証法を古代キリスト教成立にあてはめて各書の成立年代を推測したり、宗教進化論を旧約聖書解釈の枠組みとしたり、実存哲学の考え方をベースに聖書を解釈したり、マルクス主義を聖書解釈に適用したり、と。
 これらはまあ自覚的にやっているので、その問題点がわかりやすいわけですが、現代人にわかりにくいのは無自覚に実証主義を聖書解釈に適用した場合です。実証主義というのは、フランス革命期のオーギュスト・コントが主張したもので、「知識の対象を経験的事実に限り、その背後に超経験的実在を認めない立場。 超越的思弁を排し、近代自然科学の方法を範とする。」(コトバンク)です。つまり、超越者である神がかりに存在しても、その神は世界にはかかわってこないという考え方です。だから、実証主義者は超越者からの啓示もあり得ないということになり、聖書各巻は同時代の文化・宗教の産物にすぎないということになります。なぜ現代人には自分の聖書解釈が実証主義に染まっていることを意識できにくいかというと、現代人は実証主義に首まで浸って生活しているからです。
 近年はやりの、パウロを1世紀のユダヤ教に還元するN.T.ライトや、創世記の創造記事を古代カナンの神話に還元するウォルトンは、実証主義に侵食されていると思います。もちろん神は真空中に啓示を与えたのでなく、ある文化の中にその文化の中で暮らす人々にわかることばで啓示を与えましたから、同時代の文化を参照することが聖書解釈上役に立つこともあります。しかし、文化はいわば器であって、神はその器にご自分のメッセージを入れて渡してくださいましたから、聖書執筆当時の文化との類似性よりも、むしろ、区別性に注目してこそメッセージを読み取ることができるのです。「これまでの聖書解釈は間違っていた。周辺文化の観点から聖書の言葉が全部わかった!」とか騒ぐのは、いかにも的外れだなあと思います。