苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖書そのものを読むこと

 神様は、聖書各書が書かれた同時代の言語・文化を器として、これにメッセージを載せて啓示をお与えになりますから、その同時代の言語・文化について理解を深めることは釈義をする上で有用である場合があることは、当然でしょう。しかし、では当時の言語や文化に通じていたら、正しく聖書が読めるのか、わかるのかというと、そうでもないのが不思議です。イエス様の同時代の多くのユダヤ人たちがイエス様を理解せず十字架にかけ、イエス様を宣べ伝えるパウロユダヤ教の人たちは理解せず迫害してしまいました。イエス様もパウロも、同時代の文化から生じたことばではなく、上から与えられた啓示を語り、時代文化の言うことと異なっていることを教えたからでしょう。

 ですから聖書において、もし同時代の言語・文化との類似が見つかったら、「これでわかった」とは言わないで、「確かに似ているけれど相違は何だろうか」とよく考えることが大事です。以前にもこのことは何度か書きました。私はこのことを大学時代に津村先生から、神学生時代には渡辺公平先生のブルトマンをめぐる論文から教わりました。類似性よりむしろ区別性が大事だということです。
 今気づいたのですが、学生時代、哲学の勉強を始めた時に、飯塚勝久先生から教えられたことも似たことだったなあと思い出しました。私が「哲学辞典として何か買った方がいいですか?」と問うと、先生は「哲学書を読む上で、哲学辞典は実はほとんど役に立たない。哲学者というのは、自分の特有の思想を表現するために、特有の言葉の用い方をするものなので、その哲学者の書そのものを脳を絞って読んで、どういう意味でその言葉がその書の中で用いられているかということを把握してこそ、その哲学者が言わんとすることが読み取れるのです。」という意味のことを言われたのです。

 神学校1年生の時、宮村先生に森有正を読みなさいと勧められたときにも、「全集主義です。森有正の書いたものを全部読んで理解することが大事です」と言われました。たとえば森が「経験」という語に込めている意味は、辞書を引いたってまったくわかりません。彼が用いる「経験」ということばに込められた意味は、ただ森の書物を何冊か読んで初めてわかります。時代の子である哲学者が書いたものであっても、そうなのです。いわんや神のことばである聖書をや、です。
 パウロが伝えた福音は単なる同時代の文化から生じたものではなく、イエス・キリストから与えられた啓示です。「兄弟たち、私はあなたがたに明らかにしておきたいのです。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」(ガラテヤ1:11,12)

 ですから、学問的訓練を受ける機会に恵まれた人が、パウロを読むに当たって同時代のユダヤ教研究を参照なさるのは良いことでしょうが、「違い」にこそ注目していただきたい。また、普通のキリスト信徒であっても、やっぱり聖霊の導きをもとめつつパウロの書物を邦訳でいいので繰り返し繰り返し読むのが良いと私は頑固に思っているのです。ただし文脈をわきまえて読むことです。その段落内の文脈、その巻の文脈、同一著者の文脈、そして聖書全体の文脈を大事にして読めば、そんなに大外れにはならないと思います。