苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

いわゆる現代神学について

 いわゆる現代神学は、現代的課題への対応、または現代思想を聖書解釈に応用するということをします。それは結局は、古代においてグノーシス派がギリシャ思想で聖書を読もうとして陥ったのと同じように、一種のシンクレティズムになってしまうのではないかと思います。
 ヘーゲル弁証法を古代キリスト教成立にあてはめて各書の成立年代を推測したり、宗教進化論を旧約聖書解釈の枠組みとしたり、実存哲学の考え方をベースに聖書を解釈したり、マルクス主義を聖書解釈に適用したり、と。
 これらはまあ自覚的にやっているので、その問題点がわかりやすいわけですが、現代人にわかりにくいのは無自覚に実証主義を聖書解釈に適用した場合です。実証主義というのは「知識の対象を経験的事実に限り、その背後に超経験的実在を認めない立場。 超越的思弁を排し、近代自然科学の方法を範とする。」(コトバンク)です。なぜ実証主義は自覚しにくいかというと、現代人は実証主義に首まで浸って生活していて洗脳されているからです。
 近年流行しているパウロを1世紀のユダヤ教に還元しようとする学者たち、創世記の創造記事を古代カナンの神話に還元しようとする(還元しないまでも色眼鏡を掛けてみる)学者たちの研究がそれです。もちろん神は真空中に啓示を与えたのでなく、ある文化の中にその文化の中で暮らす人々にわかることばで啓示を与えましたから、同時代の文化を参照することは有益なことがあります。しかし、それはいわば器であって、その器に神のメッセージを入れて渡してくださいました。だから、聖書執筆当時の文化との類似性よりも、むしろ、区別性にこそ注目すべきです。ほかの言い方をすれば、文化ではなく聖書が物差しなのだということです。