苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

詩篇104:8「山は上がり、谷は沈みました」か、「(水は)山を上り谷を下りました」か。

<新改訳第三版>

 5 また地をその基の上に据えられました。地はそれゆえ、とこしえにゆるぎません。

 6 あなたは、深い水を衣のようにして、地をおおわれました。水は、山々の上にとどまっていました。

 7 水は、あなたに叱られて逃げ、あなたの雷の声で急ぎ去りました。

 8 山は上がり、谷は沈みました。あなたが定めたその場所へと。

 9 あなたは境を定め、水がそれを越えないようにされました。
  水が再び地をおおうことのないようにされました。

 

<新改訳2017>

5 あなたは地をその基の上に据えられました。地はとこしえまでも揺るぎません。
6 あなたは大水で衣のように地をおおわれました。水は山々の上にとどまりました。
7 水はあなたに叱られて逃げあなたの雷の声で急ぎ去りました。
8 山を上り谷を下りました。あなたがそれらの基とされた場所へと。
9 あなたは境を定められました。水がそれを越えないように再び地をおおわないように。

 詩篇104篇5-9節はノアの大洪水について描写していると考えられる。9節に「水が再び地をおおうことのないようにされました。」「水がそれを越えないように再び地をおおわないように。」とあるからである。一度、水が地を覆ったのはノアの大洪水の出来事であった。
 8節の翻訳が、第三版から2017訳で変更された。第三版では、大洪水のときに地殻変動が伴い、山が上がり、谷は沈んだという訳である。これに対して、2017訳では、上り下りしたのは山や谷ではなく、水であることに解釈が変更されている。

 ちなみにBibleHubで30種ばかりの英訳の聖書を見ると、水を主語とする訳と、山と谷を主語とする訳の両方があるが、山と谷を主語として地殻変動を指しているとする翻訳の方が多い。邦訳では、文語訳と新共同訳と聖書協会共同訳は水を主語とし、口語訳は山と谷を主語としている。

 「あがる」「のぼる」と訳されるヤアールーは、動詞アーラーのQal未完了三人称複数であり、6節の「水(マイーム)」は複数形であるし、8節の「山(ハリーム)」も複数形であるから、水でも山でも主語でありえる。

 では、用いられる二つの動詞の用法はどうだろう?アーラーという動詞が自然現象を主語として用いられた場合の用法を辞書で調べてみると、夜が明ける、煙が上る、炎が上がるというふうに目的語を取らず自動詞的に使われている。水が何かの上にあふれるという意味の場合にはアルという前置詞を伴っている。つまり、「山を上る」というような用法は他には見られない。
 また「沈みました」「下りました」と訳されるイェルドゥーは、動詞ヤーラードのQal未完了三人称複数であるが、この動詞は水を主語とすると「流れ下る」という意味に用いられていて、やはりどこかに流れ下るという「どこか」を目的語として取る用例はほかに見られない。

 このように「アーラ―」「イェルドゥー」の用法からすると、「水が山を上り谷を下りました」と訳すのには無理があると思われる。むしろ、山と谷を主語として取って、「山は上がり、谷は沈みました」と訳す方が自然な翻訳である。というわけで、詩篇104篇8節の訳は、新改訳第三版の方が適切なのだと私は思う。
 第三版の詩篇104篇8節の訳であれば、ノアの大洪水には地殻変動が伴っていたことがここに表現されている。大洪水の水の出所について、創世記7章11節は「大いなる淵の源」と「天の水門が開かれた」の2つであったと表現している。そもそも、創世記1章2節にあるように、地球は莫大な水に覆われた惑星であった。その水が、「大空」の上と下とに二分され、大空の上の水と大空の下の水に分けられた。陸地が造られた後、大空の下の水は海と地下水となり、創世記2章6節によれば地下水が大地を潤していたとある。大洪水のとき、膨大な地下水が噴出し、かつ天から大量の雨が降って大地を覆った。膨大な地下水が噴き出すと、陥没が起こったり、また造山活動が起こったりしたことを詩篇104篇8節は表現しているのである。