苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

類似よりもむしろ相違点が大事ーブルトマン、NPP、ウォルトン

 聖書の見方に関する大きな枠の話を少し書いてみます。
 その昔はブルトマンがギリシャ思想の色眼鏡をかけてヨハネ文書を読んで、今はNPPがユダヤ教の色眼鏡をかけてパウロ書簡を読んでいる。そして、ユダヤ教の言葉とパウロ書簡の中の言葉の類似を見つけると、ユダヤ教の言葉の意味でパウロ書簡を解釈すべきだと主張する。ブルトマンにせよ、NPPにせよ、どうしてこういう方法をとるのか?もとをただせば、「聖書は当時の文化の中から生じたものであるという思い込み」があるからである。つまり、世界は閉じた系であるという自然主義を背景にした実証主義にはめこまれているからである。そして実証主義こそが科学的なのだと、洗脳されてしまっているからである。旧約でいえば、ウォルトンの『創世記1章の再発見ー古代の世界観で聖書を読む』も同じことをしている。つまりカナンの異教の儀礼の中に創世記の創造記事をはめ込もうとしているのである。
 単なる人間の書いた古文書であれば、当時の文化の産物という扱いをしてよい。事実、それは当時の文化の産物以上のものではないから。しかし、聖書は、神が創造し摂理する歴史の中で、時には神は特別摂理である奇跡ももちいて、当時の文化(言語)という器に、ご自分のメッセージを入れて表現なさったものである。したがって、神のメッセージは、当時の文化との類似にではなく、当時の文化との相違にこそ現れる。ブルトマンもNPPもウォルトンもそれを見失って、周辺文化との類似にのみ目を奪われ、その色眼鏡で見て「これでわかった!」とうれしがっている。だがそれは方法論的に間違っている。神の啓示の書である聖書を読みたいならば、むしろ、周辺文化との表面的類似に目を奪われず、本質的相違にこそ着目しなければならない。

 パウロはなんと言っているだろう。「兄弟たち、私はあなたがたに明らかにしておきたいのです。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」(ガラテヤ1;11,12)キリストの福音は、当時のユダヤ教文化から生じたのでなく、啓示によってもたらされたものである。