16世紀の自由思想家ソッツィーニ、そして19世紀のシュライエルマッハ―以来今日に至るまで自由主義神学に立つ人々は、キリストが罪ある人間の身代わりとなって十字架にかかってくださったことを受け入れない。彼らは人間の本性は善だと考えるので、キリストが人間の罪の代価を支払う必要はなかったと考えるからである。NPPのE.P.サンダースも著書『パウロ』で同様の主張をしている。サンダースは、パウロは自分は罪はないと考えていたとして、だから義認とは罪を赦すことは意味しないのだと主張するのである。
E.P.サンダースの「義認」解釈 | 水草牧師の神学ノート
自分には罪はないのだから神に赦される必要もないと思うならば、むしろソッツィーニのように潔く自由思想家を名乗ればよいものを、「最新の研究によれば・・・代償的贖罪など聖書は教えていない」などと屁理屈をこね始めるから、話がややこしくなる。だが聖書はキリストが罪人のために、身代わりとなって、十字架にかかって死んでくださったと教えている。その一部を下に紹介しておく。
ギリシャの前置詞ヒュペルがカギの一つである。前置詞はそのあとの名詞の格によって、意味が異なる。
●ヒュペル+属格の場合、「~の代わりに」もしくは「~のために」という意味である。
新改訳2017
テトス2:14「キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのために(ヒュペル)ご自分を献げられたのです。」
ルカ22:19「それからパンを取り、感謝の祈りをささげた後これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために(ヒュペル)与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
ローマ5:6「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。」
へブル2:9「ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために(ヒュペル)味わわれたものです。」
2コリント5:21「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」
使徒11:50「一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。」
ガラテヤ3:13「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。『木にかけられた者はみな、のろわれている』と書いてあるからです。」
●ちなみに、ヒュペルという前置詞は対格を伴う場合には、「~を超える」「~の上に」「~にまさって」という別の意味になる。
マタイ10:24「弟子は師以上の者ではなく、しもべも主人以上の者ではありません。」
使徒26:13「それは太陽よりも明るく輝いて、私と私に同行していた者たちの周りを照らしました。」
マタイ10:37「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」
己の罪を知らず、したがってキリストの代償を必要としないけれども、キリストを尊敬する人はキリストを模範者として位置付ける神学を構築することになる。そういう人々にとっては上に掲げた聖句は目障りであるから、ないことにしたいという衝動が働く。そういう学者が次に考え付きそうなことは、ヒュペルという前置詞の意味について他の可能性を云々することであろう。
主イエスは言われた。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(マタイ9:13)自分は正しいと思う人は、キリストのもとに来ることはできない。私たちは実際には自力で自分の罪を悟ること、罪から救われる必要があることすらできないみじめな者である。あなたがほんとうにキリストに出会いたいならば、「私に自分の罪を悟らせ、キリストの十字架の意味を悟らせてください。」と祈ることをお勧めしたい。