文語訳 創世記1:26,27
1:26神言給けるは我儕に象りて我儕の像の如くに我儕人を造り之に海の魚と天空の鳥と家畜と全地と地に匍ふ所の諸の昆蟲を治めんと1:27神其像の如くに人を創造たまへり即ち神の像の如くに之を創造之を男と女に創造たまへり
以下の引用はいずれも新改訳2017から(アンダーラインは筆者による)
コロサイ1:15
御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。
ローマ8:29
神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。
2コリント4:4
彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。
1コリント15:49
私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。
2コリント3:18
私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
新約聖書からの引用も「かたち」の原語はエイコーンである。創世記1章26,27節のツェレムの70人訳における訳語もエイコーンである。まず三位一体の第二位格である御子が「神のかたち」なのである。
つぎに、創世記1章26,27が言うように、その御子になぞらえた存在として人間は造られた。したがって、人間は「神のかたち」であると言われるが、より厳密には「神のかたちのかたち」である。
堕落によって、いったん人はその「神のかたち」を壊してしまったが、キリストを信じる者たちは、本来の「神のかたち」を回復され、キリストの足跡をたどっていくのであるが、それは不自然で不自由なことではない。なぜならもともと創造において人は御子になぞらえ、御子を目指す者として造られたからである。魚にとって泳ぐことが自由であり、鳥にとって飛ぶことが自由であるように、新生した者にとってキリストに従って生きることは自由なのである。
新改訳2017が新約聖書の「神のかたち」である御子に関する各脚注に、参照箇所として創世記1:26を入れてくださったことはたいへんありがたい。「福音主義神学」やら「舟の右側」に文章を書いた甲斐があった。関心があればリンク先を読まれたい。
☆「神のかたち」であるキリスト・・・・福音主義神学41号掲載論文
☆「神のかたち」キリスト・・・・・・・「舟の右側」2016年11月、12月、2017年1月号に連載