苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

メシア像のズレ

 イエスの同時代人がイスラエル民族が贖われることを待望していたことは福音書に書かれている事実です。彼らはローマ帝国の圧制からの解放を贖いと考えていました。イエスに追随した多くの人々は、イエスイスラエル政治的贖いのために来られた王だと信じ期待していたことは福音書に記された事実です。
 しかし、主イエスはこうした彼らの要求を拒絶しました。かえってイエスは出会う一人一人に、へりくだって罪を悔い改めること、イエスを神の御子と信じ、神に赦されること、神の子とされて永遠のいのちを生きることを説いて回られました。イエスが与えたのはイスラエルの国家的贖いではありませんでした。イエスは王は王でも茨の冠を押し付けられ葦の杖を持たされた王として、十字架で辱められました。同時代のユダヤ人の切望していたメシア像と、現実来られたメシアとがあまりにも違ったので、ユダヤ人たちは十字架にかかられたイエスを罵倒しました。イエスは十字架上で超自然的な呪いの闇の中で苦しまれ、死にました。しかし3日目に蘇られ、罪と死と悪魔に対して勝利を収められました。

 ではイエスは、イスラエルの民族的贖いについては全く語らなかったのか、といえばそうではないのがややこしい。たとえば、復活の後40日たって天に昇ろうとするとき、弟子から「主よ、イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか?」という問いかけがあったとき、イエスはそれを否定しませんでした。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは父がご自分の権威をもって定めておられることです。」とおっしゃいました。
 というわけで、イエスイスラエルの国家的贖いということは将来あることは否定しなかったけれど、イエスの初臨におけるほとんどの宣教の内容は、ご自分が神の御子であること、一人一人が(ユダヤ人もサマリア人も異邦人も)、へりくだって罪を悔い改めること、神に赦されること、神の子とされて永遠のいのちに生きることでした。