苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ポンテオ・ピラトのもとに

マタイ27:11−26


1.「ポンテオ・ピラトのもとに」・・・国家権力

 使徒信条のキリストに関する告白で「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」とあります。なぜ、ローマ総督ピラトのことが特筆されるのでしょうか? 目的はふたつあります。
第一の目的は、イエス・キリストが十字架にかけられて処刑されたことは、架空のお話ではなく歴史の事実であることを示すためです。ポンテオ・ピラトという名を聞けば、「ああ、ローマ帝国第五代ユダヤ総督か。あの総督の法廷でイエス様は十字架に定められ処刑されたのだ」とはっきりとわかるためです。なぜ主の十字架の出来事が歴史上の事実であることが明記される必要があったかといえば、使徒信条のまとめられたころグノーシス主義という異端が発生していて、イエス様は歴史的実在ではなくて、架空のお話であるという偽りの教えが流行しつつあったからです。そうではなく、私たちが住んでいるこの世界の歴史のなかに神の御子が人として生まれ、そして、この歴史のなかで十字架で贖いを成し遂げられたのです。
 
ポンテオ・ピラトのもとに」と言われる第二の目的は、聖書が教えている国家権力というものがしばしば帯びる反キリスト的側面を象徴しています。聖書は、ノアの大洪水のあとバベルの塔の時代に出現したニムロデ(創世記10:8)の出現以来、権力というものの課題について教えています。本来、権力者とは堕落した世界を治めるために、神から託された剣の権能を託された機関です(
創世記9:6)。
 けれども、権力者は最初のニムロデから世の終わりに出現する「不法の人」(2テサロニケ2:4)にいたるまで、傲慢になって、剣をもって神の民を弾圧し他国を侵略して神に敵対する傾向があることをも聖書は教えています。つまり、国家権力には二つの顔、すなわち、「神の僕」と「サタンの手先」としての顔があります。
さて、主イエスが人としてこの世界を歩まれた1世紀において、最大の権力者はローマ皇帝でした。かつてイタリア半島の小さな都市国家にすぎなかったローマが、その軍事力によって見る見る急成長して、西はスペイン、東はシリア、南はモロッコからエジプトまでの北アフリカ、北はブリテン島ドナウ川まで併呑しました。イスラエルもまたローマ帝国に吞み込まれて、ローマから総督が派遣されました。総督ピラトはローマ皇帝代理人でした。神の御子イエス様は、このローマ皇帝の権威を帯びた裁判官のもとで、死刑の宣告を受けるのです。神の国と地の国との衝突というテーマが、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という一句に表現されています。
私たちキリスト者には、為政者がサタンの罠に陥ることなく、謙遜にその務めを遂行するようにと祈る責任があります。


2.権力の背後のサタンの限界

 さて、ピラトの前に引き出された主イエスはどうなさったのでしょう。主イエスは、すでにユダヤのサンヒドリンでの法廷において、自らを神に等しい者としたことのゆえに、死刑判決を受けました。しかし、ローマの法廷に訴えても「それは宗教問題だ」として却下されると予測して、祭司長、長老たちは、「イエスは自分をユダヤ人の王であると主張した」と訴えました。この件について、総督はイエスを尋問します。

27:11 さて、イエスは総督の前に立たれた。すると、総督はイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか」と尋ねた。イエスは彼に「そのとおりです」と言われた。

 イエス様が、ご自分がユダヤ人の王であるとしたという訴えに、「そのとおり」とお答えになったは、ユダヤ人の王というのは、旧約時代から待望されたダビデ王の子孫、メシヤを意味していました。事実、イエス様はそのメシヤですから、「そのとおりだ」と主はお答えになりました。しかし、祭司長、長老たちはこの呼び名を利用して、「イエスが民を惑わしてローマ皇帝に対して反逆戦争を起こそうとしている」だの「ローマへの税金を払うなと教えている」などと訴えたのです。もちろん、それらは事実無根です。けれども、イエス様は反論を何もなさいません。

27:12 しかし、祭司長、長老たちから訴えがなされたときは、何もお答えにならなかった。

 これにはピラトが驚きました。

27:13 そのとき、ピラトはイエスに言った。「あんなにいろいろとあなたに不利な証言をしているのに、聞こえないのですか。」
27:14 それでも、イエスは、どんな訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。

 ピラトはイエスにかんする予備知識がありました。イエスが政治的な反逆者となるつもりなど無いことを知っていました。また、イエスが弁舌さわやかに、律法の専門家たちが持ちだす数々の難問に、あっと驚く答えを与え、彼らを撃退してしまうと聞いていました。それなのに、このたびの裁判においては、まったくその弁舌を発揮なさらないで、ひたすら沈黙を守り、言われるままにしているのですから、ピラトが驚いたのは無理もないことです。
 主イエスはなぜ沈黙を守られたのでしょうか。主イエスは覚悟を定めておられたからです。私たち人類を救うために、ご自分を贖いのいけにえとして、御父にお捧げになることを。しかし、ピラトにはイエス様の意図がまったく理解できませんでした。十字架の出来事は、この世の知恵の悟りえるものではないのです。

「十字架のことばは、滅びにいたる人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。」(1コリント1:18)

 また、こうもあります。

「2:7 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。
2:8 この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」1コリント2:7,8

 ユダヤの法廷と、ローマ総督ピラトの法廷の背後には、サタンが働いていました。堕落天使であるサタンは私たち人間よりもはるかに賢いものです。しかし、サタンには主イエスが十字架で成し遂げようとしていることを理解できなかったのです。なぜでしょうか?
恐らくサタンというのは、権力への意志、高慢の原理で生きているものなので、謙遜の道を歩むこと、十字架の恥辱の道の彼方にこそ勝利があるということが、逆立ちしても理解できないのでしょう。サタンにとっての絶対の価値は、自分の虚栄心・傲慢な心を満足させることです。虚栄心・傲慢なこころを満足させないものには、なんの意味もありません。ですから、恥辱のきわみである十字架の死の向こうに、勝利があるというキリストの道を理解することは、決してできなかったのでしょう。出来ないから、自らキリストの人類救済のためのもっとも重要な仕事をお手伝いしてしまうのです。


3.ポンテオ・ピラトと群衆

(1)ピラトの概略
最後にピラトについて。ポンテオ・ピラトという人物は、ローマ皇帝ティベリウスによって、ユダヤに派遣された総督でした。彼は他の聖書の箇所で「ピラトがいけにえにガリラヤ人の血を混ぜた」と言われていることからすると残忍な人物だったように見えます。ピラトは、恐怖でもって、植民地人であるユダヤ人たちを支配しようと考えたのです。ずっと公正の人物ですが、マキャベッリが『君主論』という本の中で、「愛ではなく恐怖によって支配するほうが民を統治する方法としては簡単で確実である」と言っていますが、ピラトは、まさにそういう恐怖で植民地の民を統治しようとしたのです。
しかし、そういう政治家は自分自身の内側にも常に恐怖を抱えているものです。自分自身が恐怖でもって皇帝にへつらっているから、民もまた脅しつければ言うことを聞くのだと考えているのです。ヘロデ大王もそうだったでしょう。自分の王座を脅かす者がいたら、赤ん坊までも皆殺しにせよというのです。ピラトもヘロデ大王のように残忍な振る舞いをして恐怖でもってユダヤ人を押さえつけようとしたのですが、彼の中にも恐怖がありました。それが彼を真理の道から外れさせ、保身のために、神の御子を十字架の辱めの後に殺すという歴史上最も大きな罪を犯させたのです。
さて、当時のユダヤでは過越しの祭りには、群衆の望む囚人の解放をする習慣がありました。そこで総督は、その祭りには、群衆のために、いつも望みの囚人をひとりだけ赦免してやろうとしました。サンヒドリンはイエスを憎んでいても、イエスは群衆には人気があったから、きっと群衆はイエスを解放しろというだろうと予測したのです。

27:16 そのころ、バラバという名の知れた囚人が捕らえられていた。
27:17 それで、彼らが集まったとき、ピラトが言った。「あなたがたは、だれを釈放してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」
27:18 ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていたのである。

 また、ピラトがイエスを釈放したいと考えていたのには、家庭内のわけもありました。

27:19 また、ピラトが裁判の席に着いていたとき、彼の妻が彼のもとに人をやって言わせた。「あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は夢で、あの人のことで苦しい目に会いましたから。」


(2)群衆の心変わり、残忍な群集心理
 ところが、ピラトの思惑は外れました。狡猾な祭司長、長老たちはあらかじめ群衆に対して手を打っていたのです。

27:20 しかし、祭司長、長老たちは、バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけた。
27:21 しかし、総督は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」
27:22 ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」
27:23 だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ」と叫び続けた。

 この「群衆」というのはどういう人々だったのでしょう?よくわかりません。ですが、その中にはきっと、数日前には「ダビデの子にホサナ!」と叫んで、イエス様のロバに乗ってのエルサレム入城を熱狂的に感激した人々も少なからずいたでしょう。どういうわけか、「イエスを解放せよ。バラバを釈放しろ。」という声はまったく上がりませんでした。いったいどういうことが群衆のうちに起こっていたのでしょう。一つの謎ですが、恐らくは、これらの群衆はイエスが軍事的なメシヤ、革命家としてローマ総督ピラトを打ち倒す働きをすると期待していたのに、手も無く逮捕されて惨めな敗残者の姿をさらしているのを見て、イエスに対する愛想が尽きたのであろうと思います。彼らの期待したメシヤ像と、実際に、神が送ってくださったメシヤ像とが違っていたので、手のひらを返してイエスを殺そうとしたのです。やはり、十字架のことばは滅びにいたる人々には愚かなのです。

 もう一つ考えられるのは、熱狂状態における残忍な群集心理です。今までどんな律法学者も祭司長たちもかなわない強く清いお方だと思っていたイエスが、あんなに惨めな姿をさらしているじゃないかということになると、これを徹底的に苛めぬき、侮辱し、暴力をふるうことにある種の悪魔的快感を覚えるという罪深い性質が群集と言うものにはあります。フランス革命でも、文化大革命でも、熱狂の中で同じような残虐なことが行われました。
 人間というのは、つくづく恐ろしい罪をそのうちに秘めているものです。何事も無いときには善人と思えるようなただのおじさんが、ある状況になると鬼のようになって残忍なことをやってしまうのです。

(3)ピラトの保身
 残忍さ、恐怖の力でもって、群衆を支配してきたピラトは、彼を脅かす力さらに大きいと、いとも簡単に心なえてしまいます。ピラトはローマ法に照らせばイエスが無罪であることはよくわかっていましたが、イエスを無罪放免としてしまえば群衆が暴動を起こすかもしれない。もしそういうことになれば、自分の政治的失態が皇帝ティベリウスの知るところとなって、自分は失脚することになるだろう。ピラトの頭の中を駆け巡ったのは、「ローマ法に反して無罪の男イエスを死刑にすることによる政治的失点と、この裁判でユダヤの群衆の暴動を招いた場合の政治的失点と、どちらが大きいだろうか?」ということでした。そして、ピラトは群衆のご機嫌を取ってイエスを殺すほうが自分の政治的失点ははるかに少ないと、「官僚裁判官」らしく卑怯な計算したのでした。そして、その責任も逃れたいと考えて、水で手を洗いました。しかし、ピラトもまた滅びたのです。

27:24 そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」
27:25 すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」
27:26 そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した。


結び 
今回、この箇所を思いめぐらすなかで、「十字架のことばは滅びにいたる人々には愚かですが、救いを受ける私たちには神のことばです。」というみことばが、何度も胸に迫ってきました。サタンの支配する世は、勝利や成功や富や権力など傲慢な心を満たすものにのみ価値を置きます。そういう人々には、キリストの十字架の奥義は決して理解できません。神の御子は、あえて恥辱のきわみである十字架の死を選び取って、その向こうに復活の栄光を見出されました。 滅びの道を行く人々は、成功・富・権力など傲慢な心を満たすものにのみ価値を置く。彼らには、キリストの十字架の奥義は決して理解できません。しかし、傲慢の道でなく、謙遜の道、みこころへの服従、十字架への道こそキリスト者の道です。まことに、心の貧しい者は幸い、悲しむ者は幸い、柔和な者は幸いです。天の御国はあなたの者です。