苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

栄光を剥ぎ取られた王

 昨晩の川上村で家庭集会で開かれたみことば。

 それから、総督の兵士たちは、イエスを官邸の中に連れて行って、イエスの回りに全部隊を集めた。そして、イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」
 また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出した。
                     (マタイ27:27-31)

 兵士たちが、主イエスに王のローブを着せ、荊の冠をかぶらせ、葦の王杖を持たせたのは、偶然のことではない。摂理である。主イエスは、王として十字架における悪魔と罪との戦いに赴こうとしておられた。
 しかし、主イエスは栄光を剥ぎ取られなければならなかった。私たちの罪を背負うために苦しめられるにしても、どうして主イエスは、よりによってこれほどの侮辱をともなう死に方をお選びになったのだろう。
 ソクラテスは毒杯を仰いで誇り高く死につき、シャカは別れを惜しむ弟子たちに囲まれて、彼らを諭しながら従容として涅槃についた。しかし、主イエスは異邦人の兵士からこれほどの辱めを受け、つばきをかけられ、弟子たちには見捨てられ、最後には、自分が民衆にこれまで「信頼せよ」と説いて回られた神に向かって、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と惨めな叫びを上げて、死なれた。それは多くのキリスト教の殉教者の死のありようとも、あきらかにちがう。
 十分にことばに表現できないのだが、王であるイエスがこのように、一切の栄光を剥ぎ取られる方法でなければ、私たちの神の前の罪は贖いえなかったということだろう。それは、アダム以来の私たちの人間の罪の根が、神の前でのかたくなで誇り高い自我であるからではなかろうか。プライドという、人間の、神の前での最後の砦が打ち砕かれてしまうために、主イエスは屈辱の死を遂げられた。主イエスを救い主として受け入れるということは、私はこれほどの恥辱にあたいする情けない罪人ですと認めることである。そのとき、どこまでもかたくなな自我が砕かれる。
 恐らくこのことと、人の前で罪を告白することは深く関係している。・・・終わりの日の審判において、主イエスは裁きにおいて、私が自分を覆い隠していた、いちじくの葉を一枚、一枚はがされ、白日の下にさらされる。神の目の前にも、人の目の前にも、自分自身の目にさえ隠していた、自分のあからさまな姿を知るとき、ああ私がすくわれたのは、どんな私の善いわざによるのでもなく、すべての栄光を捨てて、ゴルゴタの十字架へと歩んで行かれた主イエスによるのだということを知るだろう。

    里山のむこうに八ヶ岳連峰