苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「十字架のことば」は愚かである・・・・「包括的福音理解」への疑問

 伝道とは、共通恩恵の器に特別恩恵をいれて渡すことです。しかし、伝道のためには他のことはその手段と考えればよいと主張しているわけではありません。そのような姿勢は、神の御心にもかなわないと思います。福音を伝えることは、確かに人々を永遠の滅びから永遠のいのちへと招く尊い愛のわざですが、それが至上命令であるからといって、伝道のためには他の営みはなんでもその手段として考えてよいわけではありません。そういう伝道至上主義の考え方をすると、伝道に役に立たないことはすべて無意味だということになってしまうでしょう。もし路上生活者のための炊き出し支援といった働きを、単に福音を伝え教会を数的に成長させるための手段であると考えるならば、これほど効率的でないからやめてしまえということになりかねません。

 むしろ、こうした社会的奉仕は、神の文化命令に対する応答として、神の前で固有の価値があることだと考えるべきだと思います。神は、伝道に固有の価値があるとされ、また、社会奉仕にも固有の価値があるとされているのです。伝道にも社会的奉仕にも領域主権があるのですから、片方を他方に還元してはなりません。伝道はキリスト者に対するご命令ですが、神のみこころにかなう文化を形成していくこともまた、キリスト者のもう一つの務めです。飢えている人々を放置するような社会は、神のみこころにかないませんから、炊き出しが伝道に役立とうが役立つまいが生活困窮者を助けるべきなのです。

 しかし、他方で社会的な働きに熱心になるあまり、キリストの十字架の福音を曇らせる場合もあるように思います。私は、東日本大震災後、福音派でしきりに言われるようになった「包括的な福音理解」という表現は危険であると思っています。安易に福音の意味を拡張することで、社会的な隣人愛の実践をすることが福音宣教なのだと主張して、キリストの十字架の福音を見失っている場合があるのではないかと懸念するのです。聖書がいう福音とは、「神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰」(使徒20・21)であり、「キリストは・・・私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと」(1コリント15・3,4)であり、「十字架のことば」(1コリント1:18)です。

 特別恩恵の働き「十字架のことば」の宣教と、共通恩恵の働きとしての社会的奉仕との間には大きな違いがあります。それは社会的奉仕は共通恩恵なので、世間の人々の目にも価値あることとして映り表彰状をくれたりすることもありますが、「十字架のことば」の宣教は特別恩恵なので世間の人々の目には愚かなこととして映り、時には迫害されることもあるということです。「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」(1コリント1・18)使徒パウロは表彰状をもらわないで、弾圧されました。

 私たちは神から文化命令を与えられていますから、神のみこころにかなう社会正義の実現のために働くことは良いことであり、固有の価値のあることです。しかし、社会的奉仕に励み世間から称賛を得たからと言って、伝道者はそれでキリストの福音を伝えたことにはなりません。福音の宣教は、世間からあざけられても迫害を受けても「十字架のことば」を宣べ伝えることであり、「神に対して悔い改め、主イエスを信じさない」と語り続けることなのです。