苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

白井聖書教会で伝道に関するお話

 昨日は白井聖書教会で朝礼拝で大宣教命令に関する説教、午後は聖書的な伝道に関する講演でした。どちらも守られて終えたこと、まず祈って支えてくださった兄弟姉妹に感謝です。お話の概要は次の通りで、これは私がその昔奥山実先生から教わったことが基本で、それに少々加えたものです。
1.教会の使命(ミッション)には、伝道と社会的奉仕があり、主イエスもその後の教会も、この両者を実践してきました。ですが、優先順位は伝道のほうですが、社会的奉仕もおろそかにしてはなりません。
2.伝道については、託された地域のすべての家々、人々に福音を宣べ伝えよ(ケーリュッソー)という命令と、悔い改めてイエスを信じた人を弟子とせよ(ディダスコー)→教会形成という二つの命令があります。前者は未信者を回心に導く基本的に教会の外に足で出かけて行ってする働きで、後者は教会内でする働きです。教会はえてしてどちらかに偏りがちですが、群が小さくても大きくてもずっと両方大事にすることが大事です。

3.教会というのは、氷山の一角で水面下の見えない部分の大きさで、水面上の大きさも決まってきます。水面下の見えない部分とは求道者、潜在的求道者、一般的好意者層ですが、それは社会的奉仕やすべての人に福音をあかしするという、一見すると、無駄に見えるような奉仕によって形成されるという面があります。だから目先に成果にこだわらず、主のご命令に忠実に応答することが肝心です。主に忠実に歩んでいると、主がご自分の羊を送って下さいます。

4.では伝えるべき福音とはなにか?福音を伝えるにあたっては、福音の伝え方は文脈化する必要がありますが、福音そのものは文脈化してはなりません。福音そのものを文脈化すると「異なる福音」になってしまいます。福音を古代のギリシャの宗教文化に文脈化したらグノーシス主義の異端になりましたし、福音を近代知識人の文化に文脈化したら自由主義神学になってしまいました。現代でも、「罪とか悔い改めとかは語らず、ただ神は愛である、ありのまま受け入れられることだけを語ろう」という人々がいますがこれは「異なる福音」となる危険がある。心に責めを抱いている人々へのアプローチとして、気持ちはわからなくはないけれども。

 福音とは、パウロによれば、次の通り。
「1,兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。2,私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。3,私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、4,また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、5,また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」(1コリント15:1‐5)

 もっと簡潔に言えば、「十字架のことば」。

「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。(1コリント」1:18)

 福音とは人のわざではなく、神が私たちのためにキリストにあってしてくださった救いのわざです。

 また、その救いのわざに対する応答という観点から表現すれば次のとおり。

ユダヤ人にもギリシア人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰を証ししてきたのです。」(使徒20:21)

 文化を超えて共通して伝えるべき福音は、神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰です。人はありのままでよいわけではない。神に背を向けていた人は、神に向き直り(悔い改め)、主イエスを信じる必要がある。

 

 白井聖書教会の兄弟姉妹は、今、小さな子どもからお年寄りまで、伝道に燃えていて

会堂がいっぱいになっていました。そして、地域にみんなでいのちのことば社オイコスとかいう企画でトラクト配布を地域にしているそうで、素晴らしいです。

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 集会が全部終わったとき、マスクをかけた一人のご夫人が近づいて来られて、「西です」とおっしゃいました。なんと西満先生の奥さまでした。四十年ぶりくらいにお目にかかりました。妻が神学生時代にお世話になったのです。西先生は旧約学者でちょっとユニークな先生でしたが、やさしいところのある方で、貧しい奉仕神学生であった妻に赤い長靴を買ってくださいました。
 牧会者である松永先生ご夫妻との交わりでは、副鼻腔炎が話題になりました。なんとお二人とも副鼻腔炎になったことがあるとのことで、「痛いですよねえ」と話しました。また、松永牧師は、件の『私は山に向かって目を上げるー信州南佐久における宣教と教会開拓』が、「面白い本です」「面白い本です」と何度もおっしゃってました。