苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

福音の定義

1.福音の表現―時間がたっぷりあるとき、ないとき

 おととい書いたように、伝道とは、①すべての人に福音を聞かせること。②悔い改めてイエスを信じた人を主イエスの弟子とすることである。では、福音とは何なのか。聖書によれば、福音は、広く定義することも、その核心に絞って定義することもできる。

a.最も広くいえば、福音とは聖書に啓示された神による神の国の計画の全貌である。それは、福音書でイエスが、宣教の最初に宣言したように、キリストが神の国の王となるという宣言である。そして、キリストを信じる者はその臣民、キリストとの神の国の共同相続者とされるということである。

b.だが、より絞り込んで言えば、神の国の民となるための障害は罪であるから、罪を解決するために、キリストがしてくださったことの良い知らせが福音である。パウロは次のように表現している。1コリント15章1-5節抜粋「兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。(中略)キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」である。つまり、福音とはキリストが私たちの罪のために十字架で死に、葬られ、復活したことである。

c.さらに絞り込んで、福音の核心を述べれば「十字架のことば」(1コリント1章18節)である。「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」(1コリント1:18)

d.観点をキリストの下さる救いを受け取る側から表現した場合、福音とは「神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰」(使徒20章21節)である。

e.さらに端的に言えば「主イエスを信じなさい。そうすれば、救われます。」(使徒16:31)である。

 時間がたっぷりあって、ゆっくり数回にわたって伝えることができるならば、aのように聖書全体から神の国の福音を語ればよい。だが、散髪屋さんで髪を切ってもらいながら理髪師に、あるいはタクシーに乗りながら運転手さんに福音を告げるとすれば、bの内容、つまり、キリストの十字架と復活である。さらに絞り込めば、「十字架のことば」つまり、「キリストがあなたの罪を背負って十字架に死んでくださいました」ということである。

 福音をどう受け取るかという観点からいえば、福音とは「悔い改めてイエスを信じよ」である。もし目の前で、今まさにピリピの看守のように絶望のあまり自殺するかどうかという瀬戸際にある人に対して語るべきギリギリに煮詰めた福音は、「主イエスを信じなさい」の一点である。

 つまり、ルターがいうように、律法は人がすることであり、福音とは神がキリストにあってしてくださったことである。人は神が用意してくださった恵みを信仰という乞食のからっぽの手で受け取る。

 十字架の福音は矮小化された福音理解だなどと批判する人々がいる。キリストの十字架による代償的贖罪は、滅びに至る人々にとっては愚かに映るのだからやむをえないが(1コリント1:18)、滅びに至る人々でないはずの人々が十字架の福音を軽々しく扱うことばを吐くのは聞くに堪えない。福音の核心は「十字架のことば」なのである。キリストが十字架で刑罰を代理に受けてくださったことによる罪の問題の解決を抜きにして、神の国の民となり、神の国(支配)を地にもたらすために働くこともできない。その意味で、十字架のことばは決定的に重要である。福音の核心をしっかりと繰り返し確認しつつ、神の国のご計画の全貌の理解を深め、その生き方において相応しく応答することはよいことである。

 

2 福音をコンテクスチュアライズすべきか?

 福音とは何かについてもう一点。パウロ使徒20章21節で、「ユダヤ人にもギリシア人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰を証ししてきたのです。」と述べている。注目すべきは「ユダヤ人にもギリシア人にも」とあることである。この言い方は、民族・文化の違いを超えて普遍的なことを表す時の表現である。つまり、「神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰」とは民族・文化・時代を超えて普遍的な福音を意味するわけである。

 コンテクスチュアライゼーションと称して、福音の内容を伝道対象の人々が属する文化に適応しようとする人々がいる。たとえば、「現代人はストレスが多く、受容されることを求めている。だから、悔い改めなど求めないで、ただ神がすべてありのままに受容してくださることだけを語るのがよい。それが現代人への福音のコンテクスチュアライゼーションである」などという。パウロは、福音を伝える自分の生活の仕方、福音を伝える器については、コンテクスチュアライズすることに努めた。食べる物、着るものなど、自分の習慣を捨てて、相手にあわせて近づこうとした。福音を伝えるためのさまたげにならないためである。ユダヤ人にはユダヤ人のようになり、ギリシャ人にはギリシャ人のようになることに努めた。しかし、伝えた福音は相手がユダヤ人であれギリシャ人であれ、「神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰」であった。
 ただし、<ありのままに受け入れられたという経験のただ中でこそ、人は心の鎧を外して、神の前の自分の罪を悟り悔い改めて主イエスを信じるようになるのだから、まずは神がありのまま受け入れてくださったのだということを知らせることだ>という主張は理解できる。その人がやがて、自分がありのまま受け入れられるためには、神は最愛のひとり子を十字架にかけるという犠牲を払われたのだということを悟り、悔い改めてイエスを信じるようになることを目指して、まずはありのまま受け入れるというわけである。それは「ユダヤ人にはユダヤ人のようになり、ギリシャ人にはギリシャ人のようになる」ということに通じる伝道方法と言ってよいだろう。だが、その方法が福音の本質をゆがめないように、注意することが必要である。