昨日は、お昼は板宿できつねうどんを食べました。透き通った汁はカツオと昆布の優しい味で、麺は腰が強すぎず弱すぎないツルツル麺でした。和心鶴鶴という店でした。
それから兄の車にのっけてもらって、まず須磨海水浴場に出かけました。3年ぶりの海開きをしたそうです。対岸は紀伊半島。そして紀伊半島が切れたところが鳴門海峡で、淡路島が見えます。今日は晴天で入道雲が湧き上がっています。人出は、このところのコロナ再流行で三分の一くらいだそうです。砂浜は禁酒禁煙ということで、とってもきれいでしたし、仮設トイレも水洗できわめて清潔でびっくり。かつての海水浴場の猥雑な雰囲気はまったくなくて、物足りないくらいです。
真っ黒に日焼けした青年たちが歩く中を、60代半ばのおじさん、お祖父さんが服を着てウロウロするのも妙な感じで、「正明ちゃん、パンツ一丁になって海にはいろか?」というと「あかんあかん」と返事。やむなく靴を脱いで靴下を脱いで、ズボンをたくし上げて、ひざから下だけ海に入りました。ひんやりいい気持ちです。水は、ぼくが子どもの頃とは比べ物にならないほど透明できれいでした。記念にスマホでパチリパチリ。僕らが帰るころ、ぼくたちを見ていた二人連れの日傘をさした女性たちも我慢ができなくなったらしく、靴を脱いで水に入っていきました。
そのあと、三宮あたりに新しくできた芸術的水族館アクアリウムナントカというのに入りました。展示の仕方が凝りに凝ったアートでした。結構見ごたえがありました。涼しかったし。下の写真はヘコアユといいます。一生、下向きの魚生なんですね。そこで一句浮かびました。
「ヘコアユは ただひたむきに したむきに」
で、午後4時から9時半まで神戸神学館で二つのお話をしました。この神学校はカベナンター書店の二階にある小さな神学校です。一つ目は「N.T.ライト玉石混交」で、二つ目は「ΑでありΩであるキリスト」。みなさん熱心に聴いてくださって、感謝でした。
「N.T.ライト玉石混交」のアウトライン
はじめに
序 「ライトファン」にとってのライトの魅力とは何なのか? 7点。
1 聖書解釈の方法について
2 ライトのキリスト観の問題点
(1)ライトのキリスト観
(2)聖書による評価
3 E・P・サンダース、N・T・ライトの義認理解とその間違い
(1)サンダースの義認理解
(2)サンダースの義認理解の誤り
(3)N・T・ライトの義認理解
(4)ライトの義認理解の誤り
4 ライトの終末論は可と不可
(1)ライトの説
(2)聖書からの評価
①ライトの聖書的なところ
②ライトの非聖書的なところ
結び 玉3つ、石5つ。
☆リンク先 N.T.ライト玉石混淆(拡充版) | 水草牧師の神学ノート
「ΑでありΩであるキリスト」のアウトライン
はじめに
Ⅰ 「神のかたち」であるキリスト
1 旧約聖書のキリスト
2 ギリシャ教父は創世記1章26、27節の「神のかたち」を御子であると理解した
3 アウグスティヌス以降
(1)アウグスティヌスによる「神のかたち」理解の変化
(2)近代聖書学
4 改めて、コロサイ1章15節を文脈の中で読むならば・・・
5 「神のかたち」開示のプロセス
Ⅱ ΑでありΩであるキリスト
1 キリストを契約神学的展望の視点とする
(1)第一の主題:「インマヌエル」
(2)第二の主題:キリストは王として悪魔を倒し、神の王国を相続する
(3)第三の主題:キリストは祭司として、自らを犠牲として捧げる
2 キリストを組織神学的展望の視点とする
一夜明けて、今日の午前中、ふと思いついて私が60年前に通った、須磨教会付属千鳥幼稚園のときにお世話になった先生にお会いしに行くことにしました。ちょうど、カベナンター店長Y兄がそちら方面に配達の用事があるから連れて行ってくださるとおっしゃったので、便乗させてもらいました。卒園でお別れしてから58年たっていますが、10年ほど前のお正月、O先生から年賀状が届くようになりました。私が牧師になったということを、私のクリスチャンの叔母が友人であるO先生に伝えてくれたからでした。
お目にかかった先生に一瞬マスクを外していただいたら、昔の面影がはっきりとしていらっしゃいました。ぼくも童顔のままおじいさんになったので、わかっていただけました。たまたま来られていた娘さんにパチリと写真をとっていただきました。先生もどういうわけか、「修治くんのことはよく憶えているんです。明るい子でした。まさか地上で再会できるとは思っていませんでしたよ。」とおっしゃって、たいそう喜んでくださいました。58年ぶりの地上での再会でした。別れ際にお祈りして別れました。