苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ふるさと、きょうだい、母のこと

 昨日からふるさとの神戸に来て、神戸に住む兄と、奈良に住む姉と、幼いころ育った須磨寺町界隈を散歩しました。真っ青な空、強い日差し、蝉しぐれ、大池、昔とあまり変わらない街並みです。歩きながら話していると、次から次に幼稚園、小学生時代の思い出が浮かんできて、あまりのくだらなさにゲラゲラと大笑いしました。お腹が痛くなるほど笑ったのは久しぶりです。

 私が住んでいた家は子どもたちは「大池」と呼んでいた池のほとりの二階家で、池の周辺は桜並木になっていて、春には花見客が連日やってくる風光明媚な場所でした。池にはボートが浮かび、池に山水が流れ込む口ではメダカすくいをしたものです。池の向こうには公園があって、そこから山に登れました。兄と、栄太郎あめの缶におやつを入れて山に登り、第二神明道路のトンネルの上に出て通り過ぎる自動車を眺めながら、おやつを食べました。これをぼくたちは「近足」と呼んでいました。上り下りの山道は、赤い椿の花がたくさん落ちていました。

 十歳ころまでの日々は、やたらと長かったなあと感じるのが不思議です。

 

 姉兄と話していて、「世の中には、結構仲の悪い兄弟姉妹というのがいるようだけれど、ぼくたちは仲が良くて幸せだねえ」と言うと、兄が「それは、お母さんのおかげやろなあ。お母さんは、ぼくらを比べることが全くなかったもんな。」と言いました。確かにそうでした。一人一人を優劣をくらべることをまったくしないで、母は私たちを育ててくれました。

 また、しつけについても「お兄ちゃんなんだから云々」とか、「弟なんだから云々」といったことを言われたことが一度もありませんでした。それぞれを、それぞれとして育ててくれたのです。そのせいか、今もって、私たちはお互いに「ちゃん付け」で呼び合っているのです。