苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

教理の学び方 19921011 →20161027改

1.知識と愛

 「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かにな

り、あなたがたが真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。また、あなたがたが、キリストの日には純真で避難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神のみ栄えと誉れが現わされますように。」(ピリピ1:9−11)

 「知識は人をたかぶらせ、愛は人の徳を建てます。人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないようには知ってはいないのです。しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。」(1コリント8:1a−3)

 上の二つの御言葉に耳を傾けて、私たちは今回の学びのまとめをしたいと思います。第一のみことばは、知識と愛との健全な関係をのべています。すなわち、知識が愛を一層豊かにするという関係です。第二の御言葉は、知性が不健全に働いている場合をのべています。知識が愛と反抗するように働くという場合です。
 第二の御言葉はギリシャ文化の誇りを持っていたコリント教会の兄弟姉妹を戒めるために語られた言葉でした。偶像を礼拝することは議論の余地なく罪でした。しかし、偶像にいったんささげられた肉を食べることについては罪かどうか議論が分かれました。知識のある人々は、偶像に捧げた肉を食べようと食べまいと、偶像が表しているありがたい神々などいないのであるから、食べてよいのだと主張しまし。けれども、偶像に捧げられた肉を食べると、自分は偶像礼拝をしたのではないかという良心の呵責にとらわれるクリスチャンもいました。客観的に事がら自体としていえば、偶像にささげた肉を食べたって、ゼウスもアポロンもいないのですから、どうということはないのです。けれども、心痛める兄弟姉妹たちのたましいのことを愛しているならば、かれらのつまづきにならないために、食べないことがよいのです。
 2節は、新改訳・口語訳・共同訳いずれにおいても「知らなければならないことも」と訳されていますが、これは不適切です。ここはむしろ、「知らなければならないようには(καθωσ)」と言うのが適切です。つまり、ここで問題となっているのは何を知っているかではなく、どのように知っているかなのです。コリント教会の人たちは、知識を持っていました。そしてそれを誇っていました。パウロはさらに新たな知識を持ちなさいというのではありません。そうではなく、ふさわしい知識の持ち方をしなさいと言っているのです。ふさわしくない知識の持ちかたとは、その知識を誇り、自分の欲求の満足のためにそれを振り回すことです。ふさわしい知識の持ち方とは、知識を、愛という目的に従属させることです。
ピリピ書のこの箇所には知識と愛との積極的な関係が言われています。
①愛は真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになりうるものなのです。
②その結果、主イエスのお会いする時に恥じる所なきものとなるよう聖化されるのです。
③そして、その主たる究極の目的は神のみ栄えが現わされることです。
 知識は、それ自体が目的となるときには、人を高慢にさせ、神を侮るものとさせます。しかし、神を知る知性が御霊の導きにより、神を愛する愛の成長のためのしもべたるにとどまるかぎり、知識は有益です。教理的学びには、知性が動員されますから、格別このことを深く心に刻まねばなりません。

2.教理の学び方

  教理的な学びのメリットと危険性は、具体的歴史的文脈が捨てられて、抽象的な概念だけが残ることにあります。
 メリットは、整理されて聖書の真理の全体構造の中でのその教理の位置付けも見え、それゆえに、何を信じるのかが明白になるということ、それゆえに教会を結ぶ紐となり、異端との識別もしやすくなります。
 危険性は、具体的歴史的文脈から離れることによって、信仰が観念的になってしまうことです。では、この危険をのがれるにはどうすればよいでしょうか。たとえば、「神は唯一である」という教理は、偶像礼拝に取り囲まれたイスラエルの民が、「偶像を造るな、拝むな、仕えるな、主のみを拝め。」と再三再四命じられ、背く者には神の裁きが下ったという歴史的事件とそこに語られた神の御言葉の中から、取り出されたものです。
 ところが、「神は唯一である」という教理が、歴史的文脈からいったん取り出されると、その教理は一見生命を失ったような姿になります。肉が落ちて骸骨だけ残ったようになります。私たちが生ける神知識を得ようとするならば、枯れ骨に御霊の息を吹き込んでいただかねばなりません。そこで・・・
①祈りつつ−−つまり今生きて語られる神に向かい合い−−
②歴史的文脈に還元し、さらに、
③私たちの置かれている歴史的文脈・具体的生活に適用することが必要です。
 「神は唯一である。」という教理を、聖書の具体的歴史的文脈に還元するとき、その教理の力強さ、この真理に背く者に対する神の怒りのお姿などが見えてきます。
 そして、祈りつつ「神は唯一である」という教理を自分の生活に照らすなら、ある人は異教の葬儀に出席した際に妥協してきた自分が照らしだされるかもしれません。ある人は、自分が富にも神にも仕えようとしていた二心の罪人であったことに光が当てられるかもしれません。ある人は、恋人のほうが神様より第一になっていた自分を見いだすでしょう。ある人は、日本の教会がかつて犯した神社参拝の罪について示されるでしょう。いずれにせよ、そこには悔い改めが生じ、キリストの十字架への感謝が生じ、悔い改めと信仰あるところには聖化が進み、神のみ栄えが現わされます。
 正しく教理的に神を知るならば、そこには、知的自己満足はなく、むしろ、悔い改めの涙と、主の贖いへの感謝と賛美、聖化の実があります。これが知性が神を愛する愛のしもべとして奉仕したかどうかのしるしです。

 教理的あるいは組織神学的秩序による聖書の学びをされるとき、上のことを配慮されることをお勧めいたします。