苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

永遠の御旨・・・同盟基督教団信仰告白(4)

エペソ1:3−7

「1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
1:5 神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
1:6 それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
1:7 この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」エペソ1:3−7

日本同盟基督教団信仰告白第3項
「神は、永遠の御旨により万物を創造し、造られたものを摂理によって統べ治める絶対主権者である。」


 プロテスタント教会は聖書を唯一絶対の権威としています。格別、私たちの属する日本同盟基督教団は「聖書は誤りの無い神のことばである」と信じる聖書信仰を標榜しています。でも、一言で「聖書を信じる」といっても、これだけ辞書みたいに膨大な聖書ですから、茫漠とした話です。そこで「私たちの教会は、聖書全体の教えの要約は次のようなものだと理解して信じています」というのが、信仰告白文です。日本同盟基督教団信仰告白8か条の本日は第三番目です。
 ここには三つのポイントがあります。ひとつ目は「永遠の御旨」であり、二つ目は「創造」であり、三つ目は「摂理」です。今日は、その一つ目「永遠の御旨」の教理です。神の永遠の御旨は神学用語では「聖なる定め」と書いて「聖定」と言います。

1. 永遠の御旨(聖定)

(1)万物が造られる前に
 永遠の御旨、聖定というのは、三位一体である真の神の天地万物が存在する前からのご計画という意味です。私たちが住んでいるこの地球、この宇宙は永遠から存在するものではありません。宇宙は、真の神様が創造なさったときから始まったものです。
 古代からインドやギリシャなど聖書の啓示を受けていない文明世界では、多くの人々は宇宙は永遠のものである考えてきたようです。これを恒常宇宙論といいます。けれども、神様は聖書を通して、この天地万物には始まりがあると啓示していました。永遠であるのは、ただ真の神のみなのです。(ちなみに、宇宙に始まりがあるというのは現代科学では定説化されています。)
 さて、天地万物が存在するより前、つまり、永遠の昔から、永遠の現在のうちに、父と子とは聖霊にある愛の交わりのうちに生きておられます。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1,2)とヨハネ福音書冒頭にあるとおりです。また、主イエスが天の父に語りかけたおことばのなかで、父なる神が世界の存在する前から、御子を愛しておられた(ヨハネ17章)とあるとおりです。父と子と聖霊は愛の交わりのうちにあって、私たちが住んでいるこの天地万物の創造と、その統治について相談をなさりご計画をお立てになったのでした。その計画が「永遠の御旨(聖定)」ということです。
 父と子と聖霊の唯一の神が、そのように天地万物の創造とその統治について相談をなさったことが、ちらりとうかがい知られるもう一つの聖句が、創世記1章26節の「われわれ」ということばです。
「 神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』」
 世界はこの三位一体の神の永遠の御旨(聖定)によって創造され、かつ、営まれています。17世紀英国のピューリタン信仰告白では次のように告白されています。
「神は、まったくの永遠から、ご自身の御旨のもっとも賢くきよい計画によって、起こり来ることは何事であれ、自由にしかも不変的に定められたが、それによって、神が罪の作者とならず、また被造物の意志に暴力が加えられることなく、また第二原因の自由や偶然性が奪い去られないで、むしろ確立されるように、定められたのである。」(ウェストミンスター信仰告白3:1)


(2) 神の計画と人間の自由意志
しかし、昔から、この神の永遠の御旨、聖定の教理は「扱い方に注意」とレッテルの貼られた教理です。というのは、人間の理屈は、すぐに「もし神様がすべてお定めになっているのなら、人間は自由意志のないロボットになってしまう。」といいたくなるからです。こういう考え方を決定論または運命論と言います。決定論・運命論が極端になると、すべては神のなさることであり、すべては運命なのだから、人間は自分の行動についてなんら道徳的な責任を取らなくて良いという理屈になります。「わたしが泥棒をしたのも、神のご計画だったのだから、私には責任がはい」というふうに。
しかし、聖書はそうは教えていません。聖書は「神のご計画はたしかにある。同時に、人間の自由意志と責任もたしかにある」と教えているのです。そのことを表現するために、先の信仰告白は慎重にこう言っています。神は「自由かつ不変的に定められた」と。神の変わることのない計画があり、そこには人間の自由もまた含まれている計画なのです。神は私たちの計り知れない知恵をもって、被造物である人間や御使い自由意志も含めて、しかし、変わることのない計画のうちに定められたのです。これは人間の論理を超えたことですが、聖書がたしかに教えていることです。
<神の永遠の御旨と人間の自由意志>というふたつの事実が両方聖書には書かれています。ある神学者は、<光は粒子であり、かつ、波である>ように、神の永遠の御旨があり、かつ、人間には自由意志があると説明しています。この事実は、人間理性・論理の限界です。有限な被造物についてさえ、人間の理性のおよぶことのできないこうした不思議があるのですから、まして、無限の創造主である神の永遠の御旨について、有限で時間のなかでしか生きられない私たちの理性が及ぶことができない不思議があるのは当然のことであるといえます。
神は私たち人間に知性を与えてくださいましたから、私たちは知性をもちいて聖書を読み、その御心を悟るように努力します。けれども、有限な被造物にすぎない私たちの知性には限界がありますから、神様のすべてを理解することができるわけではありません。パスカルは、「知性の限界を認めるところに知性の偉大さがある」といいました。理解できなくても、私たちは、聖書の語るところを信仰によって受け入れるのです。


(3)神の民の選び
神の永遠の御旨、つまり、永遠の聖定のなかでも、特に人間の救いに関する神様の定めについて聖書は「選び」ということばで教えています。
特に人の救いが神様の永遠の御旨のうちにあることについて、エペソ人への手紙に次のようにあります。

エペソ書1:4,5「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。 1:5 神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」

世界が創造なさる前に、神が、ご自分の民をキリストの内にお定めになっていらっしゃるのです。そして、神はそのお選びになった人々をこの世から召し出す(召命)ために、福音宣教という使命を私たち教会にお与えになりました。つまり、私たちが「神の御子キリストは、あなたの罪のために十字架にかかってくださり、三日目によみがえってくださいました。神に立ち返り、イエスを信じなさい。」と宣べ伝えるとき、神が永遠の御旨のうちにお選びになっている人々は、「あ、主がわたしを呼んでいらっしゃる」と気づいて、悔い改めて主のもとに帰って来るのです。私たち一人ひとりもそうでした。
「通信小海」の第三ページは福音欄としているのですが、そこを読んでも、まったく馬耳東風、猫に小判という状態の人が多い中で、「ああ、これは真理だ」と神に選ばれた人は悟るのです。神に永遠の御旨のうちに選ばれたあなたは、福音を聞くと、聖霊のお働きによってイエス様は神の御子だと悟り、教会に集って神様を礼拝するようになります。あなたは、自分の意志でイエス様を救い主と悟って受け入れたと思っているけれども、そして、それは一面の事実なのですが、実は、神があなたを万物の創造よりまえに、永遠の御旨のうちにキリストのものとして選んでいらしたからなのです。
私たち人間には誰が神の選びのうちにあるかはわかりません。わかりませんが、キリストの福音によって召しがなされるとき、キリストの福音を悟り受け入れることによって、神の選びの事実が明らかにされていくわけです。

2. 永遠の御旨、また、選びの教理が明らかにされた目的

 先に申し上げたように、永遠の御旨の教理、選びの教理というのは、扱いに注意しなければ決定論・運命論に陥って害になるものです。それでも、神がこの教理を聖書においけ啓示なさることをよしとなさったのは、この教理の目的が正しく理解するならば、有益なものであるからです。三点挙げておきたいと思います。

(1)伝道者が励まされて確信をもって伝道するため

選びの教理を誤解する人は、「どうせ選ばれた者は救われるのだから、伝道などする必要はない。」と言います。これはさかさまです。
使徒パウロがコリントの町に伝道したとき、人々の反応はよかったのですが、反面、反対も激しくて暴力沙汰もあり、パウロの協力者もひどい目にあいました。自分が痛めつけられるのはともかく、協力者が大怪我をさせられたときには、さすがのパウロも心くじけそうになりました。そんなある夜、復活の主イエスが幻のうちに現れて、パウロに向かっておっしゃいました。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」と。(使徒18:9,10)
神の選びのご計画があるからこそ、迫害があったり、誰も馬耳東風であったり、と困難にくじけそうなときにも伝道を続けることができるのです。私たちには神の永遠の御旨のすべてを知ることはできませんが、「すべての生きている者にキリストの福音を宣べ伝えなさい」というご命令と、神の選びの民は福音を聴くとき悟って悔い改めるという約束は知らされています。だからこそ、どんなに伝道困難と思われるような国にも地域にも、伝道者たちは出て行って福音を宣べ伝え、世界中にキリストの福音は今日まで広がってきました。いっさいは永遠の神の御手のなかにあると確信したからこそ、波濤を越え、人食い人種にもキリストの福音を宣べ伝えることができました。

(2)救われた者が揺るぐことなく、神の似姿を目指して励むため
 選びの教理を誤解する人は、「どうせ神に選ばれているんだから、正しい生き方などしてもしなくても同じだ」と言います。しかし、これはさかさまです。選びの教理を正しく受け止めた信徒は、揺るぐことなく神のみこころに従うようになります。ペテロの手紙第二です。

「1:4 その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。
1:5 こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、 1:6 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、 1:7 敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
1:8 これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。 1:9 これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。
1:10 ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません。」(2ペテロ1:4-10)

 神に選ばれ、キリストの福音によって召された人は、神様に罪を赦されると同時に、キリストの御霊をそのからだに住まわせるようになるので、必ず御霊の実をその品性のうちに結ぶようになります。それが「信仰、徳、知識、自制、忍耐、敬虔、兄弟愛、愛」と表現されているものです。パウロの手紙でいえば「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」です。それが選ばれたことのしるしです。御霊の実をむすぶようになってきているとしたら、「確かに、こんな罪深くちっぽけな私だけれども、神様はたしかにわたしをお選びになり、お召しになったのだ」と平安をいだくことができるでしょう。
 そういうわけで、神の選びは、その人がキリストを信じ、その人格のうちにキリストの御霊の実をむすぶようになるときに、明らかにされていくのです。


(3)神の恵みの栄光がほめたたえられるため
 「選び」ということばは誤解を招く場合があります。たとえば「特選の白菜」といったら、特別すばらしいから選ばれたということでしょう。だから、俺は神に選ばれた偉いんだ。と傲慢になる。しかし、聖書でいう選びについての全くの誤解です。
神は、人がこの地上に生を得る前に、その人を選んだわけですから、その人が立派な行いをしたとかいうことが現れる前に、その人を選んだのです。ということは、その人の行いを理由として選んだのではないのです。神様は、ただ一方的な恵みによって、選ばれる側のとりえに拠らずにキリストの内に私たちをお選びになったのです。ですから、私たち神の民としては自分を誇る理由がありません。傲慢になるのは愚かなことです。ただ神様の恵みをほめたたえるほかないのです。
「それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」(エペソ1:6)
と書かれているとおりです。

むすび
 私たちは、時間のなかに生きている有限な存在ですから、神の永遠の御旨のすべてを悟ることなど到底できません。
 しかし、神がその永遠の御旨のなかで、私たちをキリストのうちに選んでいてくださったからこそ、キリストの十字架の福音を聞かされたとき、それを悟って、自分の罪を認め悔い改めてキリストを信じ礼拝するものとなりました。
 この永遠の御旨のうちに選ばれた人々が、この南佐久郡にも多くいますから、私たちはたゆむことなくこの地の人々にも福音をあかししてまいりましょう。また、永遠の御旨のうちに選ばれているからこそ、日々悔い改めつつ、御子の姿、御父のすがたを目指して生きてゆきましょう。それは、なんのとりえも無い私たちを選んでくださった神様の恵みの栄光が褒め称えられるためです。