苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖書釈義の目指すこと

「私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。」使徒20:27


 歴史的文法的聖書釈義がプロテスタント教会のスタンダードな聖書釈義だとされてきた。その目指すところは、聖書の各巻の執筆者の意図したところである。たとえばコリント前書であれば、パウロは読者であるコリントの兄弟姉妹たちに何を伝えようとしたのかを求めて、本文を文法的に正確に理解し、当時の手紙の書き方といったことや、時代的文脈や地理的文脈といった執筆事情を考慮して読むというふうに。
 けれども、もしそれが釈義のすべてであるとすると、釈義とは単にコリント前書という古文書を古文書として読むということにすぎないことになるだろう。神は聖書を霊感なさるにあたって、執筆者の性格・能力・同時代の文学様式・資料収集・編集・想定している読者、その他もろもろの執筆事情の一切を摂理の下に支配し導かれたのであるから、これらのことを考慮して読むことはもちろん意味のあることであるが、それで十分ではないと思う。なぜか。
 それは、「聖書はすべて神の霊感によるものである」からである。旧新約聖書66巻が一冊の書として、神から与えられているからである。神は存在しても、歴史の中に超自然的に介入することはないと信じている人々(理神論者)にとっては、聖書釈義とは聖書の各書の研究を意味するだろうし、聖書66巻をひとつの書としたのは、教会会議の決定という以上の意味はないのは当然のことであろう。しかし、聖書は全体として神の啓示であると信じている人が、聖書釈義を上述のような意味での各書の歴史的文法的釈義にのみ限定すべきだと思い込んでいるとしたら、それは筋が通らない。聖書はすべて神の霊感によるものであると信じることは、聖書には有機的な全体性があることを信じていることを意味しているからである。聖書を構成する各書は、聖書の有機的全体性のなかで読まれるべきである。
 聖書各書のなかのある部分を読むにあたっては、その本文のその前後の文脈、その書の中の文脈、そのもろもろの執筆事情という文脈とともに、聖書全体としての文脈を考慮して読む必要がある。聖書全体としての文脈を考慮して聖書を読むということは、聖書による聖書の解釈である。ウェストミンスター信仰告白の聖書にかんする告白の第9項に次のようにある。「聖書解釈の無謬の規準は、聖書自身である。従って、どの聖句の(多様ではなくて、ひとつである)真の完全な意味について疑問のある場合も、もっと明らかに語る他の個所によって探究し、知らなければならない。」
 聖書による聖書解釈ということを考えると、上述の「歴史的文法的聖書釈義」以上の解釈の結果が現われてくるばあいがある。ひとつの例を挙げておきたい。創世記1章26-27節に出てくる「神のかたち(LXXでeikwn)」である。 

「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」

 新約聖書コロサイ書1章15節は、この「神のかたち(eikwn)」は神の御子のことであることを開示している。

「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。」

 神の三位一体についてまだ啓示を受けていない創世記の記者は、創世記1章26,27節を書いたとき、「神のかたち」が御子を意味していることを当然知りえなかった。ということは、執筆者の意図以上のことをコロサイ書は開示しているわけである。これは啓示の漸進性progressivenessによることである。このように、私たちが聖書全体の文脈のなかで聖書によって聖書を解釈するときには、歴史的文法的聖書釈義の限界を超えてゆくということも時折、起こってくる。聖書釈義がめざす最終目標は、各書の執筆者の意図に到達することではなく、聖書記者をお用いになった聖霊の意図に到達することであるということになる。
 

 ただし、聖書による聖書解釈といっても、ワードスタディ的にばらばらにあちこち参照して読むというのは恣意的なことになってしまう危険がある。聖書を大きく統一的に把握する必要がある。聖書全体を統一的に把握する方法として用いられてきたことには二つある。ひとつは論理的な方法で、組織神学と呼ばれる。啓示・神・人間・キリスト・救済・教会・終末といった論理的・主題別に聖書の教えを整理して全体としてバランスよく把握する方法である。もうひとつの方法は、歴史的な流れにしたがって聖書の全体を把握する方法であってG.ヴォスはこれを「聖書神学」と呼んだ。歴史的統一軸としてはおもに「契約」という概念が用いられた。


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