苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

愚かな誇り

「あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。そればかりか、そのような行いをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです。」1コリント5:1,2

 5章には教会における「戒規(訓練・譴責)」について記されている。コリントという町は、korinthiazestai「コリント風に生きる」という、不道徳・快楽的な生き方をするという意味の動詞があったほど、享楽的な町だった。コリントに形成されていた教会の群れにも、その影響が及んでいたことが、今朝のことばからうかがえる。
 問題は、コリント教会ではこうした不品行を放置し、しかも、それについて誇り高ぶっていたということである。何を誇り高ぶっていたのだろうか?おそらく「救いは律法の行いによらず恵みによる」という教理を自分たちは知っているということを誇り高ぶっていたのだろう。人が神の前に義とされるのは、律法の行いによるのではなく、その信仰によるのだから、不品行を行っていても放置していてもよいのだという無律法主義者の愚かな誇りであろう。
 ますますコリント化する現代社会の中にあって、恵みによって神との関係を回復していただいた自由の中で、きよい神の民にふさわしく生きる者でありたい。律法主義の罠も、無律法主義の罠ものがれて。