苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

知性も汚れて・・・

テトス1章15節
新改訳
きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心まで汚れています。

口語訳
きよい人には、すべてのものがきよい。しかし、汚れている不信仰な人には、きよいものは一つもなく、その知性も良心も汚れてしまっている。

塚本訳
潔い者には凡てが潔く、穢れた、不信仰の者には一つも潔いものがなく、その理性も良心も穢れている。

前田訳
きよい人々にはすべてがきよく、汚れた人々、不信の人々には何ものもきよくなく、彼らの精神と良心は汚れています。

新共同
清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。

NIV
To the pure, all things are pure, but to those who are corrupted and do not believe, nothing is pure. In fact, both their minds and consciences are corrupted.

 新改訳、口語訳、新共同訳が「知性」、他の訳が理性、精神、mindsと訳すのはヌースである。スネイデーシスの訳語はみな一致して「良心」である。いずれにせよ、人間の精神の働きの中で知的側面を表わす言葉がヌースである。
 もう40年も前、学生時代に読んだ本に、「感性は欺かれてまちがうことがあるけれど、理性は欺かれず自律している。この理性を頼りとして学問は成り立つとされてきた」というふうなことが書かれてあった。「理性の自律」は近代思想のドグマ(疑ってはならない教義・前提)だ、と。
 だが、人間の理性も良心もけがれていると聖書は明言している。理性も良心も実に頼りないものなのだ、と。原発事故の際、そして事故後の説明、再稼動にむけての発言を見ると、「日本の最高の知性」であるはずの科学者たちが、利権のためにいい加減なことを言っているのを見て、知性は自律などしていないなあ、聖書のいうとおりだと思った。「日本の最高の良心」であるべき官僚裁判官たちも、残念ながら同じだった。
 知性や良心を正常に働かせるためには、信仰をもって、キリストにその汚れを取り去っていただかねばならない。