苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

私たちの大祭司

         ヘブル4:14−5:3、ヘブル7:21−28
         2012年3月25日 小海主日礼拝

 キリストの三つの職務、王、祭司、預言者を学んでいます。前回はイエス様の預言者としての務めでしたが、今回はイエス様が大祭司として私たちのためにとりなしてくださることについて。
 預言者と祭司の共通点とちがいとはなんでしょう。どちらも神にお仕えするという点では共通していますが、預言者は神からことばを預かって民に伝えるという職務ですから、神から人間へという方向で奉仕するのですが、祭司職というのは民の代表として神に向かって民のためにとりなすのです。つまり、祭司職は人から神へという方向で奉仕するというちがいがあります。



1.私たちの大祭司

「4:14 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。 4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
  5:1 大祭司はみな、人々の中から選ばれ、神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けたのです。それは、罪のために、ささげ物といけにえとをささげるためです。 5:2 彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。 5:3 そしてまた、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のためのささげ物をしなければなりません。」

 この箇所4章14節から5章3節までは、私たちの大祭司キリストは誰よりも偉大なお方であり、同時に、へりくだって私たちにとって身近な方であることが述べられています。「もろもろの天を通られた偉大な大祭司」という表現は、今、キリストは天の父なる神のすぐそばにいらして祭司の務めを果たしていらっしゃることを意味しています。地上にいる祭司たちは天の模型である神殿で奉仕していますが、キリストは十字架と復活を経て天に上り、実物の天の、父なる神の隣で奉仕しているのです。ですから、キリストは至高の大祭司です。
 もう一方で、第15節にはキリストは私たちの弱さに同情できないようなお方ではないと言われています。祭司という務めは、人間の代表として神様に執り成し祈ることですから、人間の実情をよく理解していることが必要です。5章2節にも「彼(祭司)は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。」とあります。あんまり頭のよい人は研究者には向いているけれど、学校の先生には向いていないというふうに言われることがあります。勉強の出来ない子のことが理解できないからです。祭司となる人も立派過ぎるだけでは、迷っている人、神様のことが分からない人、誘惑に弱い人のことが理解できないので、その職に向いていないということになるでしょう。
 イエス様は神の御子ですが、祭司としての務めを果たすために人間としての弱さをまとってくださいました。人間としての心とからだを持って、私たちがこの世で経験するのと同じようにすべての痛みや試みにあってくださいました。イエス様は、「悲しみの人で病を知っていた」のです。
 祭司が人のために神の前に「とりなし」の働きをするためには、父なる神のことも、人間のことも、両方の立場と思いとをよく理解していなければなりません。イエス様は父なる神をよく理解しておられ、同時に、罪を犯してばかりいる人間に対する理解とあわれみをもっていらっしゃるのです。このような神と人との仲保者、大祭司は、神であられながら人となられたイエス・キリスト以外にはありえません。




2.とこしえの大祭司キリスト

 つぎに旧約の祭司たちと大祭司キリストとの比較によって、キリスト様が大祭司として私たちのためにとりなしてくださることが、どれほどありがたいことかを味わいます。

「7:21 ──彼らの場合は、誓いなしに祭司となるのですが、主の場合には、主に対して次のように言われた方の誓いがあります。
  「主は誓ってこう言われ、
  みこころを変えられることはない。
  『あなたはとこしえに祭司である。』」──
7:22 そのようにして、イエスは、さらにすぐれた契約の保証となられたのです。
7:23 また、彼らの場合は、死ということがあるため、務めにいつまでもとどまることができず、大ぜいの者が祭司となりました。
7:24 しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。 7:25 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に(eis to panteles)救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。
  7:26 また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。 7:27 ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。 7:28 律法は弱さを持つ人間を大祭司に立てますが、律法のあとから来た誓いのみことばは、永遠に全うされた御子を立てるのです。」

 注目すべきは21節の「あなたはとこしえの祭司である」ということばです。十字架の死を通って復活され、天国の父なる神の右にいますキリストが「とこしえの祭司」と呼ばれています。キリストは永遠の祭司として今日も、明日も、未来永劫にわたって私たちのために父のそばでとりなしていてくださいます。「7:25 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」
 
 これに対して、人間の祭司たちはそれぞれの務めを果たしては死んで、次々に交代してきました。「7:23 また、彼らの場合は、死ということがあるため、務めにいつまでもとどまることができず、大ぜいの者が祭司となりました。」大祭司が途絶えるたびにとりなしもまた途絶えてしまいます。実際、今、ユダヤ教の神殿はあの紀元70年のローマの攻撃によって崩壊したままですから、2000年間大祭司はおらずその執り成しもとだえたままです。人間による働き、人間の造った建物はみなそういう限界があります。人間は死にます。人間の造った制度も建造物もやがてはほろびてしまいます。
 しかし、私たちの大祭司キリストはとこしえのお方です。キリストは死を克服して天の御座に着き、父のみもとに今もいらっしゃいます。だから、キリストを信じる私たちの神の前での赦しと救いとは完全なのです。
「7:25 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」
 生きているキリストは今日も私たちのために、天の父のそばでとりなしていてくださるのです。なんと心強いことでしょう。私たちの祈りにおいて、「主イエス・キリストの御名によってお祈りします」というのは、祈りの終わりの合図ではありません。主イエスの御名によって祈ってこそ、私たちの祈りは御父に届くのです。
 神と人との間には大きく深い淵があります。その淵をこちらから向こうに越えることはできません。神は無限ですが、人間は有限です。神は創造主ですが、人間は被造物にすぎません。神は罪のしみが一点もないきよいお方ですが、人間はその心の思いとことばと行ないにおいて罪にまみれています。しかし、神が人となられた大祭司イエスさまは神と人との間にかけられたただ一本の架け橋なのです。だから、イエス様はご自分によって、神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。

3 ただ一度、完全な贖い

 祭司は、神の前に出てとりなしの任務をはたすために、その聖なる務めに相応しく、きよい完全な生活をするきよい人格であることが期待されました。けれども、残念ながら、すべての人はアダムの子孫であり、祭司となる人も例外ではありませんでした。祭司であっても、その心の中には罪にけがれた思いがあり、愛に欠けた行ないがありました。聖なる神の前において汚れのない人はただのひとりもいません。義人はいない、一人もいないのです。当時、祭司となるのはレビ族の家系に生まれたものと決められていましたから、レビ族の子どもたちは幼い日から聖書に親しみ、清い生活をするようにどれほど訓練されたのですが、それでも罪を逃れることはできませんでした。
 それは自分が牧師という務めに召されていて、いつも直面する問題です。先日、武藤正信牧師が来られて山形開拓伝道の宣教報告をしてくださいました。その終わりのほうで、先生は御自分が牧師として霊性を保っていくためにどうすればよいだろうかとずっと探求してこられて、今も用いていらっしゃる「朝の祈り」についてお分かちくださいました。「神は実にその一人子をおあたえになったほどに、・・・を愛された。それは御子を信じる・・・が決して滅びることなく永遠のいのちを持つためである。・・・主よ、あなたのあわれみを感謝します。 主よ、しもべは今日もあなたを愛します。主よ、しもべは今日もあなたを喜びます。主よ、しもべは今日もあなたに従います」と始まるもので、私もここ一週間この祈りを用いています。とてもよいものですから、皆さんにもいずれ紹介したいと思います。・・・とりなし手は、まず自分自身が神様の前にきよくされなければ、とりなし祈ることはできません。しかし、実際、このように祈りの生活をしてきてみて、それでも自分の心と唇とからだには罪がまとわりついているということを認めざるを得ないのです。
 旧約時代、祭司たちは民のためにささげものをし、とりなしをする前に、まず自分自身の罪のためにいけにえをささげなければなりませんでした。「7:27 ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。」とあるとおりです。
 また旧約の祭司たちは毎日いけにえをささげなければなりませんでした。1年365日です。それはささげられるいけにえの効果が一時的なものであったからにほかなりません。このように人間の祭司たちは、自分自身が罪を抱えており、そのささげものも不完全で一時的に効力があるだけでした。
 それに対して私たちの大祭司キリストはどうですか。キリストには罪がありません。だからキリストはご自分のためにいけにえをささげる必要はありませんでした。父の前に出て私たちのために今日もとりなしていてくださるおかたは、高潔な罪なき大祭司です。なんとたのもしいことでしょう。
 そしてキリストは、罪ある私たちのために、ただ一度、完全ないけにえとして、ご自分を十字架でおささげくださったのです。一度でよいのは、一度で完全なものだからです。キリストの十字架におけるいけにえは完全に私たちの罪を赦すことができます。

結び

 私たちの大祭司キリストは、地上にあって天国の模型である神殿で仕えている祭司たちではありません。その模型の本体である天にいらっしゃって、父なる神のすぐそばにあって、私たちのためにとりなしの務めを果たしていてくださるのです。ですから、そのとりなしには力があります。
 しかも、大祭司キリストは人となってこの世に来て、私たちと同じような試みや悲しみや痛みのある人生を経験してくださったお方ですから、神様のみこころがわからずに迷い悩んでいる私たちの弱さに同情してくださるお方なのです。ですから、恐れることなく大胆に、イエス様の御名によってお祈りすればよいのです。
 また、大祭司キリストはきよい神の御子ですから御父の前に畏れなくとりなすことがおできになるのです。しかも、大祭司キリストは羊や牛といういけにえではなく、尊いご自分のいのちをもって私たちの罪の贖いを成し遂げられたのですから、私たち罪ある者たちのために力強いとりなしをしていてくださいます。
「彼は、たしかにあのような罪を犯しました。
 しかし、私は彼のために、この命を捨てて、罪の贖いを成し遂げました。
 私を信じる彼を、私の十字架の苦しみに免じて赦してやってください。」
このように、御子キリストはとりなしていてくださいます。だからこそ、私たちは今日も生かされています。私たちは内側をのぞけば神様の前に顔向けできないような私ですけれども、主イエス様のとりなしのゆえに今日も生かされていることを感謝しています。
 そうして、主を愛し、主を喜び、主に従って行きましょう。

最後の晩餐のとき、ペテロは「ほかのみながつまづいても、私は決してイエス様のことを知らないなどとは申しません」と胸をそびやかしていいました。主イエスは、彼がこの数時間後にイエス様を知らないと三度にわたっていうことをご存知でした。けれども、そんなペテロにイエス様はおっしゃいました。「あなたの信仰がなくならないように祈った。」と。主は、今日もあなたのためにとりなしていてくださいます。