苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

恥じてはいけない

ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。(2テモテ1:8)
 そのために、私はこのような苦しみにも遭っています。しかし、私はそれを恥とは思っていません。というのは、私は、自分の信じてきた方をよく知っており、また、その方は、私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。(2テモテ1:12)

 キリストの福音をあかししたことのゆえに、使徒パウロは当局に逮捕・投獄されていた。「恥じてはいけない」と繰り返されるところを見れば、やはり、お上につかまったことを恥ずべきことであると考える人々が結構多かったということがうかがえる。「パウロ先生の伝道熱心なのはわかるけれど、あそこまで過激に伝道して警察につかまってしまっては、かえってあかしにならないんじゃないの。」というふうなことを思慮深げに言うキリスト者もいたのだろう。
 だが、使徒はいう。悪事を働いて逮捕されるのは恥ずべきことだが、大胆に主の福音をあかしして当局に逮捕・投獄されることがあったとて、それを恥じることはない。むしろ、主は言われた。

「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなた方は幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。」(マタイ5:11,12)

 
 思想信条の自由や表現の自由憲法に保障された社会に置かれた自分であるから、逮捕・投獄されたことはない。因習深い地での宣教において、キリストの福音のゆえに、針のむしろに座らせられるような思いは少々したことはあるけれども、かつての切支丹弾圧の時代とは比べ物にならない。キリストの福音のゆえに、苦しむこと辱められることの少ないことを、むしろ恥ずべきなのかもしれない。