苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

若者を育てる宣教

使徒15:36−16:2
 2015秋MBC研修会 青年伝道  閉会礼拝

15:36 幾日かたって後、パウロバルナバにこう言った。「先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか。」
15:37 ところが、バルナバは、マルコとも呼ばれるヨハネもいっしょに連れて行くつもりであった。
15:38 しかしパウロは、パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた。
15:39 そして激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行った。
15:40 パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。
15:41 そして、シリヤおよびキリキヤを通り、諸教会を力づけた。
  16:1 それからパウロはデルベに、次いでルステラに行った。そこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ婦人の子で、ギリシヤ人を父としていたが、
16:2 ルステラとイコニオムとの兄弟たちの間で評判の良い人であった。
                        使徒15:36−16:2

1.若者を福音の同労者として育てる

 パウロバルナバは伝道旅行に出かけるときに、キリスト者の青年たちを同労者として伴った。もともと教会の迫害者であったパウロ自身、キリスト教会にあって年長者であったバルナバとともに第一回の伝道旅行をするなかで学ぶことが多く、そのような経験を若手にもさせてやりたいと考えたであろうと思います。このとき、マルコ・ヨハネも同行しました。第二回目はマルコ問題で物別れになり、バルナバはマルコとともに、パウロはシラスと一緒に出かけます。第三回目はパウロは他に何人かつれていまして、途中までテモテとエラストと一緒でした。初代教会の使徒たちの伝道旅行は、チームで行うということを実践したのでした。
 その原型は、主イエスの伝道にあったのでしょう。主イエスは、弟子たちを連れて伝道旅行をし、寝食をともにして、自分の伝道の仕方のありさまを見せて、弟子たちを訓練しました。また彼らを派遣するときにも、単独でなく二人組にして送り出しました。安全のためでもあり、助け合うためであり、後輩が先輩から学ぶためでもあったと思われます。その主イエスの弟子訓練のやりかたに、バルナバパウロも倣ったのであろうと思います。
主イエスは、大宣教命令において、「弟子としなさい」「わたしがあなた方に教えたことを守るように教えなさい」とおっしゃいました。単なる知識の伝達でなく、実践するように教えなさいとおっしゃったのです。主イエスがそのために取った方法は、机に向かってテキストを読んで教えるということでなく、ともに生きること、ともに働くことでした。
 マルコ、シラス、テモテ、エラストといった若者たちは、バルナバやサウロに同行することによって、主イエスの福音のためにともに働く模範を見せてもらい、次には、自分でも個人伝道や路傍伝道を経験し、戒められ、また、慰められ、旅の道々で、あるいは船の中で、あるいは焚き火を囲んで、生ける主キリストにある交わりを味わったのです。
あるいは主の福音のために激しい迫害を受けて恐ろしい目にもあったりしたでしょう。パウロといっしょに出かけたシラスなど、ともに鞭打たれ、ともに投獄され、ともに牢獄で賛美をささげ、ともに大地震と看守の救いに主の御業を見たのでした。いかなる迫害にもたじろぐことなく、内側からあふれてくる喜びと威厳に満ちたパウロ先輩の姿に、シラスは内に住まわれる生けるキリストとの出会いを経験したのです。
私は高校三年の秋に身近な人を失うという経験を通して、はじめてまじめに人生の目的とはなんだろうか?と考えざるをえなくなりました。翌年の秋口、私は友人の紹介で増永俊雄先生にお目にかかりました。お目にかかって牧師を論破しようとしたのです。そんな風な出会いであったのですが、私は聖書を読み始め、数ヶ月後、増永先生は私に一通の手紙をくださいました。そこには、「私は水草君のような友人が与えられて心から神に感謝しています。」とありました。父ほどの年齢の人が、私のことを友人と呼んでくださったことに、驚きました。今にして思えば、そこで私は何か今まで学校でも社会でも家でも会ったことのない不思議なお方キリストとの出会いを経験したのです。


2.訓育は厳しさと寛容とをもって

 ところで、お読みした聖書箇所は有名な箇所で、青年マルコをめぐってパウロバルナバの間に反目が生じて、結局、基督教の歴史上バルナバパウロという最強の宣教のゴールデンコンビは解消してしまったという事件です。

 15:36 幾日かたって後、パウロバルナバにこう言った。「先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか。」

第一回伝道旅行で福音の種をまき芽が出たところで去ってきたから、その後、順調にそれぞれの教会は伸びているかどうかを見るために旅に出かけたいとパウロは考えてバルナバを誘ったのです。
ところが、ここにバルナバパウロの間に激しい反目が起こりました。

15:37 ところが、バルナバは、マルコとも呼ばれるヨハネもいっしょに連れて行くつもりであった。
15:38 しかしパウロは、パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた。

 第一回伝道旅行でパンフリヤで、どういう事情があったかはわかりませんが、マルコ・ヨハネは自分の家のエルサレムに帰ってしまったのです。13章13節に書かれているところです。
パウロの一行はパポスから船出して、パンフリヤのペルガに渡った。ここでヨハネは一行から離れてエルサレムに帰った。」
 ただし、15章38節で「仕事のために同行しなかった」というのは、マルコが何かエルサレムの実家に世間的な仕事があるから伝道旅行から抜けたという意味ではありません。ここでいう「仕事」は伝道のことを意味しますから、 「しかし、パウロは、前にパンフリヤで一行から離れてしまい、働きを共にしなかったような者は、連れて行かないがよいと考えた。」と訳したほうが良いでしょう。
 パウロは、どういう事情があったにせよ、福音宣教という主からの至上命令にしたがう仕事を放り出して家に帰ってしまったマルコに対して厳しい態度を取りました。「鋤に手をつけてから振り返るような奴は、神の国にふさわしくないのだ」と主イエスも教えたではないか、と。パウロ自身、学歴も家柄も富も名誉も、いのちまでも捨てる覚悟で異邦人への使徒としてのミッションを果たしてきました。そのパウロからすれば、「もう限界です」と、福音の働きを放り出して、エルサレムの実家に帰っていくような奴には伝道者として見込みはないと思われたのです。
ちなみに、このマルコはマルコ福音書の記者です。マルコは、主イエスが弟子たちとともに最後の晩餐をとり、ペンテコステのときには120名もの人たちが集まっていた大広間のあったお屋敷のお坊ちゃんでした。パウロ自身が生まれながらのローマ人というエリートの家に生まれたお坊ちゃんでしたから、なおのこと、マルコの甘さ、伝道者としての覚悟の曖昧さ、献身者としてのいい加減さが憤ろしかったのでしょう。

 他方、バルナバは慰めの子でした。バルナバはマルコにもう一度チャンスを与えるべきだと考えました。バルナバに言わせれば、「マルコはまだ若いし、確かにパウロがいうように献身の覚悟もあいまいなところがある。だが、彼のうちにも主が与えた召しがあるのだ。だから、斬って捨てるのでなく、長い目で見て育ててやるべきだ。」ということだったでしょう。
 バルナバの深い瞳に見つめられると、パウロは「そもそも、パウロ、君だってかつてはキリスト教会の迫害の急先鋒だったではないか。それをわたしが寛容をもって受け入れ、ともに生きたからこそ、今はキリスト教会の伝道者となっているのではないか。」と言われているような気持ちだったでしょうね。・・・けれども、パウロとしては、どうしてもマルコを第二回伝道旅行に伴うべきではない、という線を譲ることは出来ませんでした。

学びたい教訓
①若者は未熟なのだということ。完全ではなく、まだ欠けがあるのだということです。年配者、指導にあたる人は、その欠けを受け入れて、そして訓練していくということです。その訓練はともに生きるということです。
パウロの厳しさとバルナバの寛容さということ、この両方が若者の成長のためには必要でした。マルコにとっては、この時、パウロにしかられたことは生涯の傷であったでしょうが、くじけそうになるとき甘えてしまいそうなときの宝の戒めとなったでしょう。「見よ。神の慈しみと、厳しさを」とありますが、若者の教育においてもそうなのでしょう。
 自分自身の小さな経験を振り返れば、私は師に恵まれてきました。あの朝岡茂先生にはいのちがけで生きる伝道者としての姿。存在の喜びという点では宮村武夫先生。聖書信仰という点では津村俊夫先生。そして説教への情熱・みことばへの畏れを、洗礼を授けてくださった増永俊雄先生に見せていただきました。
 

3.先輩も後輩も神の摂理の中でともに育てられる
 
 かけがえのない同労者バルナバを失って、パウロは失意のうちにシラスを選んで旅立ちました。けれども、行った先で、後に「信仰による愛するわが子」とまで呼んだテモテと出会っています。パウロは生涯、このテモテのために祈り支え、育てて行ったことでした。でも、マルコのことはずっとパウロの心のなかにひっかかっていただろうと思います。「バルナバは大人物だが、寛容すぎるのではないか。マルコみたいなのは、見込みはないのだ。」そんなふうな思いがあったでしょうね。
 けれども、パウロは晩年になっての絶筆、テモテの手紙第二において、マルコを評価しています。「マルコは役に立つ者となった」と(2テモテ4:11)。あの厳しいパウロでしたが、時を経て、今や確かにマルコは主のお役に立つ者となったとほめているのです。
 パウロとしては、大バルナバの前に兜を脱ぐ思いだったでしょう。バルナバ、あなたは偉大な教師だった、と。バルナバパウロのような雄弁家ではなかったし、文章家でもなかったのでしょう。彼の書物や彼の説教は正典としては残っていません。しかし、つらつら考えてみれば、パウロがマルコはだめだと斬って捨てようとしたときに、「いやいや。彼はまだ若い。見込みも十分にある。」と彼を受け入れ忍耐して育てたバルナバがいたからこそ、マルコの福音書があるのです。マルコの福音書は恐らく最古の福音書であり、共観福音書の骨格となりました。バルナバキリスト教会に遺した功績は、パウロに勝るとも劣らないものです。
 だとすれば、若者を育てるには、パウロの持っていた厳しさも必要であるものの、やはりバルナバのような忍耐と寛容ということが第一なのです。


結び
若者は未熟です。自信過剰かもしれない。理解しがたいかもしれません。腹が立つこともあります。しかし、若者はこれから育っていく可能性を秘めた存在です。
みなさんは、白菜の種を見たことがおありでしょうか。こげ茶色で、直径1.5ミリくらいの球形で、固いものです。あの種を見て、大きな白菜の姿を想像することはとてもできません。こんなもの!と言って捨ててしまえばそれでおしまいまいです。しかし、神様はあの小さな種の中に可能性を隠していらっしゃるのです。種を蒔いて、土をかけ、水をやって待っていると芽が出て、大きな野菜へと育って行きます。私たち一人一人もそういう者でした。けれども、こんな奴といって、捨てない信仰の先輩がいて、牧師がいて、それぞれに育てられたことです。 
私の仕えている小海キリスト教会は、若者が巣立っていく地域にあります。地元に就職口、進学する学校がほとんどありませんから。この春も二人巣立ち、来春は3人巣立つでしょう。小さな群れにとっては正直痛手です。地方の教会は多かれ少なかれみな同じ経験をしています。しかし、私たちは聖なる公同の教会に仕えています。中学三年まであるいは高校三年まで、この子どもたちと一緒に神に礼拝できたことを感謝して歩みたいと願います。また、その種が後の日に大きな野菜として育つために、その一時期の成長のためにご奉仕させていただいたということを感謝して歩む、そういう視野の広い信仰と愛をもって仕えてまいりましょう。