苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

証人

                  使徒22:1−21

                  2011年1月23日 小海主日礼拝

 ギリシャ語で証人をマルチュスと言います。これは、英語ではmartyrとなって、殉教者という意味で用いられます。自分のいのちと引き換えに、イエス・キリストをわが主として証言した人々が多かったからです。今朝はパウロがキリストの証人として用いられた記事から学びます。

1. 証人の情熱と配慮

 パウロは、神殿で悪意あるユダヤ人たちの煽動によって、危うく殺されそうになりましたが、そこにローマの千人隊長が駆けつけて彼を逮捕・保護してくれました。暴徒から守る為にローマ兵にかつぎあげられて兵営に連れて行かれようとするとき、使徒パウロは千人隊長の許可を得て、ユダヤ人たちに語りかけるのです。

 パウロは、これほど危険な状況であっても、今こそ主イエスをあかしするチャンスだと思えば、そのチャンスを逃すことなく、イエスをあかしします。いや、むしろ主イエスのことばによれば、このように反対者によって迫害を受けるときこそ、福音をあかしすべきときであり、そのチャンスです。実際、このとき人々の目と耳がパウロに集中していました。主イエスはおっしゃいました。「13:9あなたがたは自分で気をつけていなさい。あなたがたは、わたしのために、衆議所に引きわたされ、会堂で打たれ、長官たちや王たちの前に立たされ、彼らに対してあかしをさせられるであろう。 13:10こうして、福音はまずすべての民に宣べ伝えられねばならない。 13:11そして、人々があなたがたを連れて行って引きわたすとき、何を言おうかと、前もって心配するな。その場合、自分に示されることを語るがよい。語る者はあなたがた自身ではなくて、聖霊である。」(マルコ13:9-11)

私たちは2010年度「主の証人として生きよう」ということばを標語として歩んできました。私たちはどれほど人を恐れず、またチャンスを見逃さずにキリストをあかしして来たでしょうかと振り返るべきときですね。新年度まであと二ヶ月ほどです。

さて、パウロは落ち着いて同胞のユダヤ人に対してみことばを語ります。そこには実に適切な配慮がなされています。

22:1「兄弟たち、父たちよ、いま申し上げるわたしの弁明を聞いていただきたい」。 22:2パウロが、ヘブル語でこう語りかけるのを聞いて、人々はますます静粛になった。 「『兄弟たち、父たちよ。いま私が皆さんにしようとする弁明を聞いてください。』」(使徒21:1,2)

 まずパウロは「兄弟たち、父たちよ」と呼びかけて話を始めます。パウロは、目の前にいる人々が悪意と殺意をもって自分に押し迫ってくる状況のなかで、「兄弟たち、父たちよ」と呼びかけたのです。悪に対して善を報いる心と実践です。目の前にいるユダヤ人たちは、パウロにとって滅び行く自分の同胞です。町で見かけた顔もたくさんあります。だからパウロは「兄弟たち、父たち」とは親愛の情をこめた語りだすのです。「父よ、彼らをゆるしてください」と十字架上で祈られた主イエスの心をパウロも持っています。

 しかも、パウロはこれを通常広く用いられていたアラム語で話さずに、あえてユダヤ人たちの母語である「ヘブル語で語りかけた」ので、人々はますます静粛になって、じっとメッセージに耳を傾けたとあります。ユダヤ人たちは、幼い頃からヘブル語をおそらく聖なる律法を学ぶような場面で聞くのが普通だったでしょうから、そのことばを聞いただけでユダヤ人たちは荘重な印象を受けて静まったのです。パウロはなかなか議論にたけた人であり、落ち着いて適切な配慮をしているなあと思わせられます。あらゆる工夫をして、自分の語るキリストにかんする証言に人々が耳を傾けやすいようにしているのです。いや、パウロの工夫というよりもむしろ聖霊の知恵でしょう。「彼らに捕らえられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。」と主イエスが言われました。

 というわけで、第一のポイントは、主イエスを証する情熱と御霊による配慮についてです。
 その配慮は、続くパウロの証言のイントロにも見られます。3節から5節。パウロは自己紹介からはじめます。ここにも彼の証の配慮が看て取れます。(23:3-5)
要するに、ここでパウロは、「自分はあなたがたと同じように、いやあなたがた以上に律法に厳格に生きていたものであり、律法と神殿をないがしろにするキリスト教徒たちを迫害していた急先鋒でした」と言いたいのです。

 証というのは、まだクリスチャンでない人々とキリスト信仰との間に橋渡しをする役割をもっています。未信者の方たちから見ると、クリスチャンはまるで宇宙人というイメージを持たれるかもしれません。その価値観とか、クリスチャン用語を聞けば、生まれながら、自分とはちがう種類の人間であって、自分はキリスト教徒になどなれるはずがないと思うのです。けれども、クリスチャンの口から「実は、自分はかつてはこれこれこういう人間でした」と聞くときに、「ほう、この人ももともとは地球人だったんだ。自分と同じような生き方、考え方をしていたのか。でもイエスに出会うときに、こんなふうに変わるものなのか」と思うでしょう。パウロも「かつて自分もみなさんと同じでした。だから、もしあなたがたもイエスと出会うならば・・・。」と言って、そういう配慮をしているのですね。

 パウロの証についての第一のポイントは、「兄弟たち、父たちよ」という呼びかけにせよ、ヘブル語で語りかけたことにせよ、自己紹介の内容にせよ、聞く人々と近い関係を作ろうとしていることです。はるか遠くから呼びかけるのではなく、相手の立場に立って説明するということです。やはり、これも今日のメッセージの第一のポイントの証における配慮ということです。

 

2.証言の内容---神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰

 さて、次にパウロが語るのは、イエスとの出会いと洗礼を受けた経緯についてです。6節から10節。
 印象深いのは、8節の主イエスのことばです。「わたしはあなたが迫害しているナザレのイエスだ」と主イエスはおっしゃいました。「わたしはあなたが迫害しているキリスト教徒たちの信じるナザレのイエスだ」とはおっしゃらなかったのです。キリスト者を迫害することは、すなわち、主イエスを迫害することだったのです。私たちキリスト者の痛みを主イエスはご自分の痛みとして経験していてくださるのです。キリストとキリストのからだである教会は、これほどまでに一つとせられているのです。

 パウロは、衝撃を受けたにちがいありません。自分は神のために正しいことをしていると思いこんで、キリストの信者たちを迫害していたのですが、実はそれは神の御心に真っ向から反対することであったのでした。自分でもこれは悪いことだと思いながらしていることを、誰かに咎められたなら、それほどショックはないでしょう。自分がそれが悪いとも良いとも思わないでしていることを、それは罪だよと指摘されたら、『ああ、そうだったのですか。』ということでやはりそれほどのショックはないでしょう。しかし、パウロの場合、これこそ正義の道であり、神のみこころであると思い込んで熱心に行っていたことが、実は、神のみこころに真っ向から反逆することであったのでした。これはあまりにも大きな挫折でした。ドーンというピストルの音とともにゴールに向かって必死で走っていたら、ゴールは反対方向にあるよといわれたようなものです。

 主イエスパウロの目を打ち、パウロは目が見えなくなってしまいます。自分こそもっとも神の真理が見えている者だと思いあがっていたパウロが、実は、自分は神のみこころがまったく見えていなかったのだということを悟らされたのです。おそらくそのことの象徴として、主はパウロの目を閉ざされたのでしょう。こうして彼は人に手を引かれてダマスコへとつれてゆかれます。自分こそ真理の導き手であると思いあがっていたパウロ(サウロ)は、自分は真理などまるでわからない者であり、人に手を引いて導かれなければならないようなものだったのだと認めないではいられなくされたのです。パウロは自分は正しい人間であると思いあがっていることが挫折し、自分は真理を知っていると思っているおごりが挫折したのでした。パウロは真理を知ることにおいても挫折し、正しく生きることにおいても挫折したのです。

 こうしてパウロは、目が見えず人に手を引かれて、まことに惨めな姿でアナニヤという人物のところにつれて行かれ、そこで洗礼を受けたのです。(22:11-16)
 このアナニヤはもちろん、神様に打たれて死んだ「アナニヤとサッピラ」事件の人物とは別人です。12節で「律法を重んじる敬虔な人で、そこに住むユダヤ人全体の間で評判の良いアナニヤという人が」と紹介しているのは意味のあることです。パウロが今対面しているエルサレムユダヤ人たちは、パウロキリスト教ユダヤ人は律法を無視せよと教えていると誤解していたからです。

 それはともかく、パウロの証言に関して今日学んでおきたい第のポイントは、復活した主イエスパウロに語りかけられたとき、パウロは、神に対して悔い改めて主イエスを信じたということです。彼の証言の主要部分がこれです。「神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰」こそ、先にも学んだように、パウロが相手がユダヤ人であれ異邦人であれ宣べ伝えた福音でした。それは、パウロ自身が経験したことだったのです。自分が正義だと思っていたことこそ、実は神の前で罪であったと認めて方向転換をする悔い改め。そして、主イエスに従ったこと、それがパウロの出発点であり、パウロが宣べ伝えた福音でした。 

 

3.証人に使命を与えるのは主イエスである

 回心したパウロは、アラビアに3年間行ったとガラテヤ書に記されています。当時イスラエルに南接するナバテヤ国だったのかもしれません。彼はその3年間を、聖霊に導かれつつ、それまでの自分の律法解釈の誤りをただし、福音理解を確立するために費やしたのではないかと思われます。その作業が終わって、パウロはダマスコそしてエルサレムに帰ります。パウロの願い・パウロの計画は、エルサレムの人々に伝道することでした。自分が受けたキリストの福音をあかししようということでした。けれども、主のパウロに対する計画は、パウロの願いとは違っていました。
(22:17-21)

 パウロの考えでは、自分のようにキリスト教に公然と反対し、弾圧していた人間が、キリストを信じるようになったということであれば、きっと多くのユダヤ人たちは注目して回心するにちがいないと考え、ユダヤ人たちに伝道しようと考えました。しかし、主のパウロに対する計画は、彼を異邦人伝道に使わすということだったのです。人の思うことと、神のご計画はしばしばこのように一致しない場合があります。キリストの福音のために自分のいのちをささげますという明確な献身を表明したとき、その人は何らかの願いを持つでしょう。パウロの場合ならば、まず同胞への伝道に重荷を感じていました。自分が呪われても同胞を助けたいとまで思ったのです。けれども、主イエスは別のご計画をお持ちなのでした。献身者が特別な使命感を持つことは間違いではありません。けれども、それ以前に基本的なことは、神さまの前では「なんなりとご自由にお用いください」という態度です。何が何でも私はこの働き以外をするつもりはありませんというのは、神の前で献身者がいうべきことではありません。

 ご自分の証人を選んだ主は、ご自分の計画された働きに、その証人をお用いになるのです。

結び

 本日は、同胞ユダヤ人たちに対するパウロの証言を味わってきました。第一に、聞いてもらえるように相手の立場にたった配慮をしてヘブル語で語り掛け、相手の立場に立って話したということです。証言者としての熱心は重要ですが、同時に、相手に届く態度とことばがたいせつだということです。第二に、内容はパウロの証言の中心は、彼自身が経験した、「神に対する悔い改めと、主イエスに対する信仰」だったということです。そして、第三に主はパウロの計画とはちがって、異邦人への宣教という使命をお与えになったということありました。証人を選び、証人を派遣なさるのは主イエスご自身です。