苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖書は同性間性交についてどう教えているか

2019年9月23日、少し加筆修正しました。

 

1 同性間性交に関する聖句リスト

「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」ローマ12:2

  「聖書は誤りのない神のことばである」という信仰に立つ教会が、何事であれ第一に確認すべきことは、聖書における神の基準です。

 (1)神が定めた結婚の秩序

創世記2:24

「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」

  神が、男と女が結婚し性交することを定められた。

(2)同性間性交の禁止

 旧約の律法において男性同士の性交は死罪に当たる罪とされていた。

レビ記18:22

「あなたは、女と寝るように男と寝てはならない(kai. meta. a;rsenoj ouv koimhqh,sh|)。それは忌み嫌うべきことである。」

レビ記20:13

「男がもし女と寝るように男と寝たなら(koimhqh/| meta. a;rsenoj) 、二人は忌み嫌うべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。」

 無論、これは古代イスラエル国家の社会的律法に属することであるから、その刑罰がただちに新約時代の教会に適用されることではないが、神の前に同性間性交が罪とされていることは事実である。

 

(3)諸々の罪のリストの中の同性間性交

 新約においても、男色はもろもろの罪のリストの中にある。

1コリント6:9、10

「あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者(avrsenokoi/tai)、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。」

 

1テモテ1:9,10

「すなわち、律法は正しい人のためにあるのではなく、不法な者や不従順な者、不敬虔な者や罪深い者、汚れた者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、淫らな者、男色をする者(avrsenokoi/tai)、人を誘拐する者、噓をつく者、偽証する者のために、また、そのほかの健全な教えに反する行為のためにあるのです。」

 

 *パウロは上のレビ記18章と20章の70人訳ギリシャ語聖書のことばから「男色をする者」を造語したようである。男色は、偶像崇拝、姦淫、不品行、泥棒、不敬虔、親殺し、誘拐、偽証、酒におぼれることといったもろもろの罪と同列にされる罪である。

 そういう意味では、男色は正常な行為であるとすることが間違いであるのは勿論だが、逆に男色だけを特別の罪として扱うのは間違いである。異性間性交であっても、結婚の契りを破壊する姦淫や不品行は罪である。

 

(4)断罪される同性間性交

「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、 同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。」(ローマ1:26,27)

  レビ記と1コリント、1テモテでは男色が取り上げられて罪とされるが、ローマ書では女性の同性間性交も罪とされている。

  以上のように、聖書は同性間性交という行為を罪と定めていることは明白である。

  

2 同性愛的傾向があることと、同性間性交をすることの区別

  人類はアダムにあって堕落したために、全ての人が何らかの罪への傾向性を持っている。後天的あるいは先天的に、それぞれに罪への傾向性をもっている。たとえば偶像崇拝に親しむ文化の家庭や社会に育った人の多くは、キリスト者になって後も偶像崇拝が異常な忌まわしいことと感じることができない。そうした不敬虔な感覚をもっていることは残念ではあるが、それ自体を教会は断罪することはできないし、すべきてはないだろう。その裁きは神の領域である。しかし、その人が偶像崇拝を実行すれば罪である。また、泥棒の家庭に育つ子は幼い日からたくみに盗むことを褒められているので、窃盗に良心の呵責を感じることができないというケースがある。そういう盗みへの傾向性を持っていることは残念だが、盗みを実行しなければ教会はそれを断罪すべきではあるまい。しかし、そういう人が盗みを実際に行えば罪である。

 他にも我々はそれぞれ先天的・後天的にさまざまな罪への傾向性を持っていて、それは残念な現実であるが、教会はその人を最初から拒絶して、福音を伝える対象外とすべきではない。キリストは罪人を救うために来られたのである。だからむしろ、教会は、それが罪であることを伝え、かつ、神の御子イエスがこれらの罪の呪いを十字架で受けて、罪を赦してくださり、主イエスに信じ従う者を聖化のみわざによって罪の傾向性からも解放していってくださる約束を告げてとりなし祈り助けるべきである。およそ罪というものは、悔い改めてキリストを信じることによって赦され、さらに、聖霊のみわざによってきよめられていくものである。

 同じように、先天的あるいは後天的に、同性愛的傾向を持つ人がいるとすれば、その傾向性があることは残念だが、教会はその人を最初から拒絶して、福音を伝える対象外とすべきではない。教会の務めは、他の罪を犯している人に対するのと同じように、同性間性交が罪がであることを伝え、かつ、神の御子がその罪のためにも十字架で償いをなしとげてくださったことを告げ、悔い改めて主イエスを信じるように勧めることである。そして、聖霊とみことばによって、癒され罪から離れ聖化されていく約束を告げ、とりなし祈り、助けることである。