苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン7月24日   神の怒りと慰め

イザヤ12:1
文語訳
ヱホバよ我なんぢに感謝すべし 汝さきに我をいかり給ひしかどその怒はやみて我をなぐさめたまへり


口語訳
「主よ、わたしはあなたに感謝します。
あなたは、さきにわたしにむかって怒られたが、
その怒りはやんで、わたしを慰められたからです。


新改訳
「【主】よ。感謝します。
 あなたは、私を怒られたのに、
 あなたの怒りは去り、
 私を慰めてくださいました。」

新共同訳
主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたがその怒りを翻し、わたしを慰められたからです。
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 キーを「・・・からです」と理由を訳出するのは口語訳と新共同訳で、文語訳と新改訳は訳出していない。新共同訳はキーを訳出しない方針だと聞くが、なぜかここは訳している。
 人生に、民族の運命に起こり来ることを、神の怒りとして、あるいは神の慰めとしてキャッチして、ふさわしい反応をするということは、それほど簡単なことではないと思う。「そんなのは、勝手な解釈である。」「単なる思い込みだ」と批判される気がして。預言者は、しかし、このようにイスラエルの民の上に起こり来ることを、神の怒りとして、あるいは、神の慰めとして理解した。啓示があったから、当然と言えば当然なのだが、置かれた時代と場所にあって神の摂理を正しく理解して、ふさわしいみことばの奉仕をしたいものだと思う、この朝。