詩篇100篇3節
知れ。【主】こそ神。
主が、私たちを造られた。
私たちは主のもの、主の民、
その牧場の羊である。(新改訳)
主こそ神であることを知れ。
われらを造られたものは主であって、
われらは主のものである。
われらはその民、その牧の羊である。(口語訳)
知れヱホバこそ神にますなれ われらを造りたまへるものはヱホバにましませば我儕はその屬なり われらはその民その草苑のひつじなり(文語訳)
知れ、主こそ神であると。
主はわたしたちを造られた。
わたしたちは主のもの、その民
主に養われる羊の群れ。(新共同訳)
公同礼拝の招詞として、幾度も聞いたり、朗読した箇所である。新改訳が耳になじんでいるせいもあろうが、四つの邦訳のなかでは最もきりっと締まった訳となっていて、招詞としてふさわしい。新共同訳は、新改訳に倣ったように見える。
世に神々と呼ばれるものが多くあっても、主こそ神。なぜか。主がわれらの創造主だから。
19歳で主を知るまで、私のたましいはさまよっていた。キリスト教主義幼稚園を出たので、子どものころからぼんやりと神様はいるんかなあと思っていたが、古事記やギリシャ神話や北欧神話の子ども版を読んで、幼稚園のころ教会で聞かされた神様とこの神々は、どういう関係なんかなあと思っていた。幼稚園で渡された聖書には「アブラハムの子であるダビデの子」の系図から始まっていた。なんのことかわからなかった。「はじめに神が天と地を創造した」で始まる聖書が渡されていたら、違ったかもしれない。「あなたの若い日に、あなたの造り主をおぼえよ」だ。
やがて中学・高校で無神論的教育を受けるうち、私は神を信じることは迷信と思うようになった。モリアオガエルや受験勉強に明け暮れているときは、それらは私にとって人生のまじめな問いから目をそらさせる「気晴らしdivertissemnts」だった。だが、ふと我に返ると、自分は真っ暗な宇宙空間に、ひとりぽつんと浮かんでいた。私という存在には何の根拠もなければ、何の意味もなかった。
19歳になり、主を知った。主は、私の創造主であり、しかも、主は造りっぱなしでなく、きょうも私を羊の群れの中において養い導いてくださると知った。真っ暗な宇宙空間から、緑の牧場に移された。なんという幸い。なんという感謝。なんという充実。