ローズンゲン1月12日
創世記6:8
しかし、ノアは、【主】の心にかなっていた。(新改訳)
しかし、ノアは主の前に恵みを得た。 (口語訳)
されどノアはヱホバの目のまへに恩を得たり(文語訳)
ノアは主の好意を得た。(新共同訳)
<感想>
こうして並べてみると、新改訳に特徴がある。フランシスコ会訳も新改訳と同じ。英訳ではISVとGWBだけが新改訳風の訳で、その他多くの英訳はみな口語・文語的。
両者どう意味がちがうか。「主の心にかなっていた」という訳はノアは何らかの意味で立派だったということが含意されるが、「主の前に恵みを得た」というのは、ノアは主から不当なばかりの祝福を受けたという意味になる。
ヘブル語本文を見てみると、口語・文語とほとんどの英訳がヘブル語からの直訳である。
文脈から考えると、9節に、「ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」とある。9節を理由として8節を眺めれば新改訳・フランシスコ的になるが、9節は8節の結果と見るならば、他の訳のようになる。
私は、8節は口語・文語の直訳が好ましい。なぜか?自分自身、「恵み」つまり不当なばかりの祝福がなくては、救われがたい人間だからという、身勝手な理由。恵みというのは、受けるはずのない者が受ける変な祝福なのだ。ヘブル語で、「恵み」は「ヘーン」という。 その変な祝福を受けたから、恵みの契約にすがって、主の前に狭き門、狭い道を生きて行きたいと思う。