苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

イエス・キリストは万民の主


 オダマキ
             使徒10:34-48
             2010年5月9日 小海主日礼拝
 きのう今日と御柱祭りが行なわれています。去年の暮れに山奥で切り出したもみの木を町の中を引き回してから、松原湖にある諏訪神社に奉納して、これを神としてあがめる祭りです。木遣り歌に「山の大木 里へ下りて神となるよ」とあります。しかし、もみの木は神の被造物にすぎません。家の柱にはなりますが、私たちの人生の柱となり、永遠に関していえば、神の前の罪を赦すことなどできるわけがありません。人間は神については、まことに無知蒙昧な者です。
 異邦人には、まことの神は創造主のみであるという知識がずっとありませんでした。ユダヤ人たちは石や木や獣や人間の像を神々としてあがめる異邦人たちは、救いようのない人々であると思っていたのです。

1. キリストはすべての人の主

 ペテロはシーツに豚やうなぎが包まれて降りてくるという変てこな夢で、異邦人であるコルネリオのもとに行くべきなのだということを示されて、使いの者たちといっしょにローマの百人隊長コルネリオの家を訪ねました。コルネリオから事情を聞けば、これはまさしく神がなさったことなのだという確信がいっそう深まったペテロでした。すなわち、10:34「神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられる」という確信です。己の罪を認めて悔い改めてイエスを信じるならば、民族が何民族であろうと救われるのです。
 ペテロが振り返ってみれば、主イエスは天に昇る前、「天においても地においてもいっさいの権威がご自分にはあたえられている」と宣言なさり、「あらゆる国の人々を弟子としなさい」とお命じになったではありませんか。だとすれば、神がどの国の人であろうと、神を恐れ礼拝するものをお受けになるのは当然のです。このことに思い至ってペテロは、イエス・キリストは宣言します。
「10:36 神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。」

 イエス・キリストによる平和とはなんのことでしょうか。それは、神と人との間の平和です。アダム以来、人は万物の創造主である神に背を向けて、神との間の平和を失ってしまいました。アダム堕落以来。人間は石や木を神々としてあがめて、創造主に背を向け敵対しているのです。創造主は敵対する人間に正義の鉄槌をくだして、滅ぼしてしまう力をおもちです。しかし、神は、神に敵対する私たちを愛されました。「汝の敵を愛せよ」と教えるお方は、まず自らその命令を実行なさったのです。
すなわち、ご自身の御子を救い主として私どものところに遣わし、御子の十字架のあがないの死によって私たちの罪を赦してくださったのです。イエスは、父なる神と人との間の平和の掛け橋となってくださいました。
 神が唯一のお方であり、神がこの世に遣わされた救い主イエスも唯一のお方です。ユダヤ人だけの神がいるわけではなく、ギリシャ人だけの神がいるわけでなく、イギリス人だけの神がいるわけでなく、インド人だけの神がいるわけではなく、日本人だけの神がいるわけではありません。もしユダヤ人だけの神とか、日本人だけの神、信州人だけの神がいるとしたら、それは偽りの神にすぎません。万物の創造主なる父なる神はおひとりであり、父なる神が遣わされたイエス・キリストはすべての民族にとって唯一の主でいらっしゃいます。「天下でこの御名のほかに私たちが救われるべき名は与えられていないからです。」

2. イエスのみわざ

 ついでペテロは、イエス・キリストが地上に来られて行われたことを語ります。ペテロは自分自身、弟子の一人としてイエス様とともに歩んだ3年間のことを振り返りながら話しています。イエス様の露払いとしてバプテスマのヨハネが登場して悔い改めのバプテスマをヨルダンで行ったとき、ペテロもその弟子として身を投じたのでした。しかし、やがてヨハネはヘロデ・アンテパスに逮捕されてしまいました。失意のうちにユダヤを去ったペテロは、ガリラヤに戻って漁師をしていましたが、漁をしているときに主イエスに出会ったのです。
「わたしについてきなさい。あなたを人間をとる漁師にしてあげよう。」というイエスの権威あることばを聞いたとき、ペテロは立ち上がってついていったのです。イエスの宣教は、ガリラヤ地方に始まり、三年目ユダヤ全土の隅々にまで及びます(37節)。
 ペテロは懐かしくあの三年間の日々を思い起こしました。イエスの愛の癒しの業、悪魔に制せられているものさえもたちどころに解放してしまうイエスの権威に満ちたおことば。それは聖霊によることばでした。どれほど多くの不治の病に犯された人々がイエス様に出会って、癒しをいただき、どれほど多くの悪霊にとりつかれた人々がイエスの力によって解放されたことでしょうか(38節)。ペテロと弟子たちもイエスの権威ある御名によって、福音の宣教といやしと悪霊追放に携わったのです。
 ですから、改めて彼は自分がイエスのわざの目撃者であると証言します。「 10:39 私たちは、イエスユダヤ人の地とエルサレムとで行われたすべてのことの証人です。」
 なぜペテロは自分がその証人だ、目撃者だと強調するのでしょうか。イエス・キリストの出来事というのは、歴史のなかで一回限り実際に起こった事実です。このことは決定的に重要なことです。イエス・キリストの出来事というのは、いわゆるありがたい宗教講話とは違うからです。
宗教講話はフィクションです。たとえば、浄土教では阿弥陀さんの本願というものを頼みにしています。阿弥陀さんは大昔願を建てて、自分の名を呼ぶ者がいたら、西方にある極楽浄土に生まれ変わらせてやろうと願を立てたそうです。だから南無阿弥陀仏と呼べと教えます。けれども、現実には西方には浄土などありませんし、西へ西へと行けば東から戻ってくるだけのことです。そもそも阿弥陀さん自体が作り話にすぎませんから、ただの気休めです。
しかし、イエス・キリストの出来事は一つの歴史の事実です。事実だからこそ、イエス・キリストを信じる者は、最後の審判の日、神の前で罪ゆるされ、救われることができるのです。
 ついで、ペテロは自らが目撃したイエスの十字架の死と復活に言及していきます。「人々はこの方を木にかけて殺しました。しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。」(10:39,40)木にかけて殺したという言い方は、「木にかけられた者はのろわれた者である」という旧約の律法のことばを背景としています。主イエスの死は、罪あるわたしたちの身代わりに木にかけられ呪いの死だったのです。私たちを永遠のほろびから救い出し、永遠のいのちに入れてくださるための犠牲でした。
 しかも、主イエスは三日目によみがえられました。ペテロはその復活の事実をも自分はこの目で目撃したというだけでなく、いっしょに食事までしたんだと断言するのです。 「私たちは、イエスが死者の中からよみがえられて後、ごいっしょに食事をしました。」(10:41)
 あの主イエスの墓が空っぽだったのを発見した日の夕方、弟子たちが肩を寄せ合って隠れ家にいたとき、主イエスが弟子たちの真中に出現されました。ペテロたちは嬉しさのあまり信じることができずに霊であろうかといぶかっておりましたら、イエス様はご自分が生身の復活のからだをもっていらっしゃることを証明するために、腕まくりをし、衣のすそをたくしあげてくださいました。そこにはくっきりと釘の跡がありました。それでも、弟子たちが不思議がっていると、イエス様は「なにか食べるものがあるかい?」とお尋ねになって、焼き魚を差し出すと、それをむしゃむしゃ食べてしまわれたのでした。そのさまをありありと思い浮かべながら、ペテロは「私たちは、イエスが死者の中からよみがえられて後、ごいっしょに食事をしました。」と証言するわけです。
 そうです。今、イエスは生きておられるのです、とペテロは証言しているのです。ひとたびは十字架にかかって私たちの罪のために死んでくださったイエスは、その三日目によみがえって現に今も生きておられるのです。主イエスは死に打ち勝った救い主だからこそ、今、イエス様の名を呼び求める私たちを死から救うことがおできになります。

この「イエスの名を呼び求めれば救われる」という福音をのべつたえ、証言することを使徒ペテロは命じられ、派遣されました(42節)。イエスの御名を呼ぶ者は、だれでも十字架の死と復活のいさおしのゆえに、誰でも神の前で罪をゆるしを受けることができます(43節)。
 
3.聖霊が異邦人に下り、バプテスマを施す

 ペテロは、このように、異邦人コルネリオに対して初めてイエス・キリストの十字架と復活についての福音を語りました。異邦人が異邦人であるままで神の救いが提供されるということは、当時のユダヤ人にとっては実に驚くべきことでした。アブラハム以来、アブラハムの子孫こそが神の民であるというふうに彼らは固く信じていたのです。実はアブラハム契約をよく読めば、世界中の国民がアブラハムによって祝福を受けると書かれていたのですが、ユダヤ人たちはいつしか自分たちだけが神の祝福を受けるのだと教えられ、思い込むようになっていたのです。
ですから、ペテロが異邦人に福音を伝えたのはきわめて無謀なことでしたし、それで本当に神様の救いが異邦人に与えられ聖霊が与えられたかどうかということは、客観的なしるしがどうしても必要でした。ペテロは確信していたとしても、エルサレムにいる多くのユダヤ人クリスチャンたちは納得しないでしょう。ですから、主イエスは、このときには特別に、ちょうどペンテコステにおいて聖霊が下ったのと起こったと同じような外国語を話すというしるしを与えてくださいました。聖霊の賜物には異言以外にさまざまのものがありますが、ペンテコステの日に著しかったのは外国語を話したことでしたから、このしるしであれば、エルサレム教会の兄弟姉妹たちも納得するにちがいありません。
 「ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。」(10:44−46)
 このような聖霊が下ったという特別のしるしを見せていただくことができたので、ペテロと同行したユダヤ人も、ほんとうに神様は異邦人にも福音を語ることをよしとされたのだと確信することができたのでした。それだけでなく、次の章に出てくるように、エルサレムユダヤキリスト者たちにも説明をすることができたのです。
そこで、ペテロは彼らに洗礼を授けました。
「『この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。』そして、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるように彼らに命じた。彼らは、ペテロに数日間滞在するように願った。」(10:47−48)

むすび
 「このイエス・キリストはすべての人の主です。」これが本日の主題です。人間であれば、何人(ナニジン)であろうと、礼拝すべきお方は、天地万物の主のみです。私たちを救うために人として来られ、十字架にかかって死んで後よみがえらえたイエス・キリストこそすべての人の主なのです。