苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

愛をもって真理を

  小海線               

                   使徒15:1−35
                 2010年7月18日 小海主日礼拝
 ふたりでも三人でも、主の名において集まる所には、わたしもその中にいると主イエスは、教会における祈りと会議について、このようにおっしゃいました。教会は会議を開くとき、主イエスの御名によって会議を開きます。そこに、主イエスのご臨在があって、会議を導いてくださるようにと祈るわけです。
教会の会議の目的は、主のみこころを求めるということに尽きます。自分の願い、都合ではなくて、主のみこころを求めるというのが、教会の会議の目的です。なぜなら、教会はキリストの教会であって、あの人、この人の教会ではないからです。「わたしは、この岩の上にわたしの教会を建てます。」と主イエスがおっしゃったとおりです。
 今日ひらいたみことばは、初代キリスト教会における最重要の会議である、エルサレム会議の記事です。この会議は、それ以後二千年間におよぶキリスト教会の歩みについて決定付けたたいせつな会議でした。最初に、アンテオケ教会が提出した議題が何であったか?次に、その会議はどのように進められ結論が導き出されたか?最後に、その結論がどのような配慮をもって議題を提出したアンテオケ教会に伝えられたか?ということを学びます。

1.割礼問題

使徒15:1-6)

 ギリシャ文化の世界に宣教が前進し、異邦人(ユダヤ人以外の民族)の教会がつぎつぎに誕生していったときに二つの問題が起こりました。ひとつは、魔術師シモンに象徴される異教の影響、つまり、偶像崇拝とか魔術とかそういうものを背景としたグノーシス主義という異端の問題でした。初代教会が直面しなければならなかったもうひとつの問題は、ユダヤ主義者の問題です。つまり、1節に書かれているように、律法に熱心なユダヤ人たちが、エルサレムからくだってきて、アンテオケのイエス様を信じた異邦人キリスト者たちに対して、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と主張し続けてやめなかったのです(未完了)。
 異邦人クリスチャンたちは当然不安になりました。せっかくバルナバパウロから、異邦人であってもイエス様を信じたら、罪がゆるされたのだと教えられて、喜びにあふれていたのに、「割礼を受けていない君たちはまだ救われていない」といわれてしまったのですから当然です。割礼というのは、紀元前2000年ごろアブラハムに神様がお命じになった儀式で、この儀式によって人は神の民に所属するものとなるということを意味していました。異邦人は異邦人のままで救われることはできず、この儀式を通じてイスラエルの民に入らなければならないというのが、ユダヤからアンテオケにやってきた人々の主張でした。割礼を受け、旧約聖書に記されたユダヤ人としてのもろもろの儀式に関する律法も行わなければ救われないというのでした。
この事態はただアンテオケ教会だけの問題ではなく、今後の教会の歩みと世界宣教にとって決定的に重要な事柄でした。アンテオケ教会の中だけで論じて対処すればすませるべきことではありません。そこで、バルナバパウロはアンテオケ教会の代表として、シリヤのアンテオケからエルサレムにまでやってきたのです。
 こうして開かれたのが、エルサレム会議です。エルサレム会議は、後にキリスト教会の歴史の第一回目の公会議とされます。

2.ペテロとヤコブ

  そこで使徒たちと長老たちは、この問題を検討するために集まりました(6節)。会議では相当激しい議論はあったものの(7節)、その発言内容が記録されているのは、使徒ペテロと主の兄弟ヤコブだけです。主の弟子のヤコブはすでに殉教しています。
(1)ペテロ
 まずペテロです。彼は、自分が主の御霊の導きによって伝道した百人隊長コルネリオのことを会議のテーブルについた人たちに思い出させながら説明します。
「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。」(7節)たしかにあのときペテロはコルネリオとその家族に割礼など授けることはしませんでした。しませんでしたが、神様は彼らに聖霊を注がれて、異邦人が異邦人のままで救われることを証明なさいました。割礼というのは、異邦人がユダヤ人になるしるしですが、異邦人が救われるためにそれが必要ではないと神様があかしなさったのです。(8,9節)
 神様は事実をもって異邦人が割礼を受けないで異邦人のままで、イエスを信じる信仰によって救われるということをあかしなさったのでした。事実を前にしては、ユダヤ主義者たちの理屈も神学も吹っ飛びます。

 次に、ペテロはかつてのユダヤ人としての律法のくびきの下におかれていたころの息苦しい経験を思い出して話します。(10,11節)
 生まれたときから、自分の名前を覚えるよりもさきにトーラーを口に出すような訓練を徹底的に受けたユダヤ人であるわれわれは事細かな律法をまもりきることなどできはしなかった。そんな自分たちも負うことができもしなかった律法のくびきを、旧約聖書ももたず異なる慣習のなかで育ってきた異邦人たちに、強いるというのは、彼らがきよく生きるために役立つのではなくて、かえって、彼らを神様から遠ざけるだけ、つまずかせるだけのことではないか。そういうのです。
 自分たちはどれほど、律法を守るために苦心惨憺してきたことだろう。それなのに、異邦人たちが最初からただ己の罪を認めて悔い改めてイエスを信じた、その信仰によって義と認められたのは、心情的に気に食わないというのがユダヤ人たちの思いだったのですね。少しは、異邦人だって律法の苦労をすればいいのだ。そういう心情、なんとなくわかる気がしませんか。
 けれども、ペテロは自分が恵みによって救われたのだという信仰の原点を自ら思い起こし、そして語りました。主イエスを知らない、知らない、知らないと三度も言った自分が救われたのは、ただ主の恵みによる以外なかったではないか。救いは、たしかに恵みなのです。恵みとは、それを受ける資格のないものが、神からいただく不当な祝福のことです。主イエスとちかしい立場にあった古い使徒ペテロが、このように話したので、全会衆は沈黙してしまいました(12節)。そうだった、確かにこの罪ある私も恵みによって信仰によって、救われたんだということを一人一人が思い出したのです。そして、ようやく甲論乙駁の議論をやめて、心静まってすなおに、バルナバパウロが、彼らを通して神が異邦人の間で行われたしるしと不思議なわざについて話すのに、耳を傾けたのでした(12節)。

(2)主の兄弟ヤコブ
 そして、主の兄弟ヤコブが議長のような立場にあったようで、会議の結論をまとめます。ヤコブパウロの主張すること、ペテロの言っていることに、なんら反対することはしていません。ヤコブが言った内容はふたつです。ひとつは、シモン(シメオン)が異邦人であるローマの百人隊長コルネリオの回心に基づいて言ったことは、旧約聖書アモス、エレミヤの預言によって、裏付けられることなのだと証明することです。(13節から18節)
 メシヤ、キリストが来られるとダビデの王国を確立し、神殿(幕屋)を築くこと、そして、その王国を世界に広げるということがダビデ契約の内容です。キリストはダビデの家系に子孫として世に来られました。異邦人の世界にまでキリストの王国が広がるのです。
 異邦人もまた神の民として召されるということを、預言者もそしてペテロも言っており、使徒パウロもそのことをキプロス小アジア半島の異邦人伝道を通して実証している以上、ヤコブは言うのです。「そこで、私の判断では、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません。」これが趣旨です。やれ割礼を受けなければ救われないだとか、救われないとは言わないまでも、救われたならば異邦人もまた割礼を受けてもろもろのややこしいユダヤ人の律法を守るべきだなどといって異邦人を悩ませてはいけないとヤコブは結論付けたのです。せっかく異邦人をも救われる時代をキリストがもたらして下さったのに、それをユダヤ人としての意地からじゃましてはいけないということです。これがエルサレム会議において、ヤコブが言った結論の中心です。
 ですが、少し続きがあります。それはヘレニズム世界地中海世界各地にあるユダヤ教シナゴーグに集う人々の救いのための牧会的な配慮ということです。20節、21節。
 ヤコブは、異邦人が救われるためには己の罪を悔い改めてイエスを信じる信仰のみでよいのだけれど、ユダヤの律法にかかわることのなかで、特に目立つことについては、シナゴーグに集って律法を日々聞いている人々のつまずき、キリストから遠ざけることにならぬために配慮をすべきだと言ったのです。ヤコブの視野には、異邦人の救いだけでなく、ユダヤ人の救いも含まれていました。ですから、ユダヤ人が、異邦人キリスト者たちの生活ぶりを見て、それだけでキリストに近づくことの妨げになるような行動は避けるべきだと言ったのです。
 同じ趣旨のことはパウロもコリント書で言っています。(1コリント9:19-23)
 まとめます。エルサレム会議の結論は、異邦人は異邦人であるままで割礼を受けることなしに救われるということでした。だからユダヤ律法にしばられて割礼を受ける必要はない。だが、律法に親しんだユダヤ人もまたキリストに立ち返って救われなければならないのだから、彼らにつまずきを与えないために異邦人キリスト者も自粛すべきところは自粛してほしいということです。福音の真理は大切です。ただ、真理を振り回して人を斬るのではなく、愛をもって相手を真理に導きいれることが重要です。「愛をもって真理を語りなさい。」

3.アンテオケに返答・・・愛の配慮

 さて、この会議の結論をアンテオケ教会に持っていってもらうということになりました。ここには、心憎いばかりのエルサレム使徒と長老たちによるアンテオケ教会の兄弟姉妹への配慮が記されています。
その配慮とは、まず、パウロバルナバに答えを持たせて送り返すことをしないで、二人のエルサレム教会の代表をつけて送ったことです。バルナバパウロだけが帰っていって『エルサレム会議は私たちの主張を聞いてくれた』と報告しても、アンテオケ教会にいる元パリサイ派の人々は納得しないで「パウロたちが勝手に自分たちに都合のよい報告をしているのだ」と言うかもしれません。そこで、これでアンテオケ教会の兄弟姉妹も、パウロたちが持ち帰ったエルサレム会議の結論が、たしかにエルサレム会議における決定なのだと安心して受け止めることができるでしょう(22節)。
 さらに、彼らに口頭で伝えるだけではなく、手紙を持参してもらって正確を期しました。その手紙は23節から29節です。内容は、まず先に行った兄弟たちが異邦人も割礼を受けなければ救われないといったのは、エルサレム教会の使徒・長老たちの指示によらないで勝手に言ってしまったことであるとし、次に、今回の会議では異邦人にユダヤ律法の重荷は負わせないということ、ただし律法を知っているユダヤ教シナゴーグに集う人々の救いの妨げにならないことを配慮しなさいということでした。
 こうして、アンテオケ教会と初代キリスト教会を襲った割礼をめぐる論争は、決着がつきました。
「それを読んだ人々は、その励ましによって喜んだ。ユダもシラスも預言者であったので、多くのことばをもって兄弟たちを励まし、また力づけた。彼らは、しばらく滞在して後、兄弟たちの平安のあいさつに送られて、彼らを送り出した人々のところへ帰って行った。 パウロバルナバはアンテオケにとどまって、ほかの多くの人々とともに、主のみことばを教え、宣べ伝えた。」(15:31-35)

結び
 この会議は、たいへんよい実りを残し、この後の異邦人世界への伝道のために役に立ったのでした。教会における会議というものが、どのようなものであるべきかということを、このエルサレム会議はたいへんよい模範として私たちに提示しています。
 それは、第一に地域教会はたいせつだけれども、教会というものは一地域だけのものではなく、地域を越えたものだという認識のたいせつさです。だからこそ、信州宣教区の諸教会が協力して塩尻開拓伝道もできます。
 第二に、教会会議というものは、主のみこころを求めるものなのだということです。主のみこころはまずもってキリストの福音がまちがいなく正確にされるということでした。本筋を明瞭にすることでした。それは人の救いは悔い改めて主イエスを信じるだけで成就するということです。
 第三に、教会会議は福音の真理の本筋を明瞭にするとともに、実際的適用における人をつまずかせない愛の配慮をすることです。「愛をもって、真理を語りなさい。」(エペソ4:15)

  小海線・・・日本一高いところを走るJRだそうです。