苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

御柱祭りで死者3名

 御柱祭りといえば、諏訪大社の、特に大木に氏子たちがまたがって急斜面を下る、危険極まりない木落としが有名であるが、信州一円の諏訪神社の支社でも、やはり7年目ごとに(実質6年ごと)御柱祭りがある。しかし、危険をともなうのは「木落し」だけでない。今年は曳き回したあと、最後に柱を立てる「御建柱」で死者が出た。
 4月11日には千曲市古大穴神社御柱祭で、「建御柱」の最中、立てようとしていた柱が倒れ、氏子四人がその下敷きになり、38歳会社員が頭を強く打ち脳挫傷で死亡し、32歳の人は骨盤骨折で大怪我をした。千曲市古大穴神社は警察が現場を立ち入り禁止とし、祭りは中止されたようである。
http://www.youtube.com/watch?v=9ptYV_zNg8U
 5月8日には諏訪大社下社春宮の御柱で、やはり「建御柱」の時、ほぼ垂直に柱が立ったときワイヤーが切れて柱が揺れ、てっぺん付近に立っていてバランスを崩した氏子3名が十数メートル転落して45歳と33歳の2名が死亡した。警察による現場に対する立ち入り禁止や祭りの中止措置はとられず、翌9日には、「腰に命綱をしっかりつけよ」と指示して祭りは再開されて柱が立てられたという。事故は命綱を腰につけていなかった本人たちの男の意地からのことなので自己責任ということか。
http://www.youtube.com/watch?v=X9nBBySRfyE
 諏訪ではもちろん事故がないことを願うが、御柱で死者を出た場合は「名誉」とされるという。「名誉だ」と思わなければ、働き盛りの夫や父や息子を失った遺族はやっていられないだろう。気の毒というほかない。この構図は、かつて天皇のための戦争の時、夫や息子や父親を奪われた遺族が、涙をのんで「名誉の戦死」なのだと自らを納得させたし、そうとでも思わなければ日本では非国民と呼ばれてしまう「靖国の構図」と似通っているような気がする。
追記2012年1月27日>〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
コメント欄に地元の複数の方から、御柱における事故死が「名誉」などという言い方は、今日では言うことも聞くこともないとのご指摘をいただいた。だが、私に「名誉」として捉えられると教えてくださった方も諏訪の方だったと記憶する。
 とすれば、もっと正確に言えば、御柱で死者が出たばあい、諏訪にはそれを「名誉」ととらえる人もいるし、そうでない人もいるということになる。昔は、そういう捉え方をする人々がいたということなのかもしれないが、今はそういう人は減っているということか。岸和田のだんじり祭りでも同じようなことを聞く。
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 ここ南佐久郡の各町村にも諏訪大社の支社があって、小海の松原湖の支社もそのひとつ。諏訪大社の規模にはるかに及ばないが、伐採祭りが前年末12月6日、山出祭りが今年2月8日、そして里曳き祭りが5月8日、9日二日間行なわれて、9日の終りには建御柱となる。それぞれの祭りで木遣り歌が歌われる。伐採祭り木遣り歌の冒頭を抜粋してみる。
「ヤアー 山の大木 里へ下りて神となるよ
 ヤアー 山の神様  お願いだ
 ヤアー 山造衆やれ お願いだ(後略)」
 御柱にはモミの大木が用いられる。大木のうちには精霊が宿ると信じるアニミズムである。それを御神体として祭り上げるわけである。山から切り出されたモミの大木は、山出祭で山を曳き出されて広場に三ヶ月ほど置いておかれ、5月の8日9日を迎えて町中の氏子たちが集って千曲川両岸の商店街の道を里曳きされ、最後に松原にもう一度運び上げられて、そこにご神体として立てられる。

 日ごろは見識ある立派な人々も、こと霊的なこととなると木や石やらを拝むという不思議。そのために時には生命まで落としてしまう。その不思議の理由について、聖書は次のように語っている。

「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明かであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を代えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互いにはずかしめて、汚すままに任せられた。彼らは神の真理を代えて虚偽とし、創造者の代わりに被造物を拝み、これに仕えたのである。創造者こそ永遠にほむべきものである、アァメン。」(ローマ書1:18-25 口語訳聖書)