苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

二つの法廷

マタイ26章57節―75節   

序 ゲツセマネの園で主イエスが逮捕されると、11人の弟子たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出してしまいました。つい三時間ほど前には、どの弟子も「あなたのためなら命をも捨てます」と口にしたのですが、人間、弱い者です。勇ましくナイフを振り上げたペテロも逃げました。しかし、ペテロは一旦逃げたものの、このまま引き下がるわけには行かないと考えて、後ろ手に縛られた主イエスがどうなってゆくのか、ことの推移を見るために、闇にまぎれてこっそりと大祭司の手下たちの後をつけてゆきます。
 やがて一団は、大祭司カヤパの官邸の門をぞろぞろと潜っていきました。ペテロもそれに従います。中庭を通ってイエスはカヤパと緊急招集された議員たちのいる奥の間へと引いて行かれます。ペテロは中庭で焚き火をしている連中のなかに紛れ込みます。主イエスがさばきをうける奥の間は、中庭から見える場所にありました。
こうして、二つの法廷が用意されました。一つは大祭司カヤパを裁判長とする法廷であり、被告は主イエス。もう一つは、中庭に開かれた法廷であり、被告はペテロです。

26:57 イエスをつかまえた人たちは、イエスを大祭司カヤパのところへ連れて行った。そこには、律法学者、長老たちが集まっていた。
26:58 しかし、ペテロも遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の中庭まで入って行き、成り行きを見ようと役人たちといっしょにすわった。


1.大祭司カヤパの法廷で

 まず大祭司カヤパの法廷です。ユダヤの法律では、夜間の裁判は認められませんでした。夜間にはえてして感情が高ぶって知性が正常に機能しなかったからでしょうか。しかし、主イエスを処刑するに関しては、彼らはそうした定めを無視しました。彼らはまともに裁判をするつもりはもともとありませんでした。

「26:59 さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える偽証を求めていた。」

 と書かれているとおりです。まさに深夜に行われた暗黒裁判です。彼らはイエスに対して不利なことを発言する偽証人たちを集めました。次から次に偽証人が出てくるのですが、みな証言が食い違ってしまうのです。

26:60 偽証者がたくさん出て来たが、証拠はつかめなかった。しかし、最後にふたりの者が進み出て、 26:61 言った。「この人は、『わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる』と言いました。」

 結局、誰一人イエスを決定的にする証言は出てきません。61節の証言は、神殿冒涜にあたるのかどうか、よくわからないことばだと解すればそうかもしれませんでしたが、なにかの譬えとも取れる漠としたものでした。実際には、これはイエスの死とからだの復活を予告なさったことばでしたが、その意味がわかる人は、そこにはいませんでした。

26:62 そこで、大祭司は立ち上がってイエスに言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」
26:63 しかし、イエスは黙っておられた。

 イエス様はどんな不利な証言がされても黙っていらっしゃいました。大祭司たちはなんとかイエスの尻尾をつかんでやろうとしますが、決定的な証拠はつかむことができません。ちぐはぐな証言がつぎつぎと語られるうちに、裁判の時間はどんどん費やされていきます。このまま夜が明けてしまったらイエスを無罪放免にしなければならなくなりそうです。もし、そうなれば、サンヒドリンの面目は丸つぶれです。そこで裁判長のカヤパは最後に、九分九厘負けるに決まっている賭けのような尋問をします。

26:63bそれで、大祭司はイエスに言った。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」

 この質問が被告の答えを得る見通しなど万に一つもなさそうな質問であるという意味はわかるでしょうか?大祭司と議員たちは「イエスが自分を神と等しくした」ということ、「イエスが自分を神の御子であるとして振舞った」という罪状をもって、イエスを死刑にしたいと考えていたのです。ですが、普通考えると、面と向かって「あなたは神の権威をもつ神の御子なのか?」と尋問をしたとしても、決して「はい、そうです」というわけがありませんでした。そんな証言をすれば、ユダヤの律法では「冒涜罪」現行犯で死刑判決が下ることは目に見えていましたから。そこで、大祭司と議員たちは、イエスのここ三年間にさまざまな言動に関する証言によって、イエスの罪状、つまり、「イエスが自分を神と等しくした」という罪をあぶりだそうとしたのでした。

 福音書を読めば、イエス様の言動が、イエスがご自分を神の御子であり、神と等しい権威を持っていることを示しており、イエスがそのつもりで発言し行動してきたのは事実なのです。主はガリラヤ湖の嵐をその言葉でたちどころに鎮めました。イエスは自然界をも支配するお方でした。また、イエスは多くの病人を触れたりあるいはことばだけで癒したりという行動をもって、やはり病気をも支配していることを示されました。
言葉について言えば、たとえば、主イエスガリラヤのカペナウムで伝道を始めて間もないころ、ひとりの中風の患者が友達に戸板にのせられて、屋根・天井にあけられた穴からつり下ろされたことがありました。目の前に下ろされてきたこの男に対して、主イエスは宣告しました。「子よ。あなたの罪は赦されました。」するとその場にいた律法学者は「この男は何者だ。神以外に、誰が罪をゆるすことができよう。」と呟きました。AさんがBさんに悪いことをしてしまったばあい、AさんがBさんにお詫びして、BさんがAさんに「赦してあげます」ということはできます。しかし、そこに第三者のCさんが登場して、いきなり「Aさん。あなたの罪は赦されました。」といえるでしょうか?言えるわけがありません。そんなことを言う資格があるのは、神の権威を持つ者だけです。・・・イエス様は「わたしは地上で罪をゆるす権威をもっていることを示しましょう」とおっしゃって、癒しのわざを行われました。
 また、ある時に、主イエスは「アブラハムが生まれる前から、わたしはある」とおっしゃって、ご自分は永遠者であるとおっしゃいました。そのときには、ユダヤ人たちはイエス様を石打ちの刑にしようとしました。・・・というわけで、イエス様がご自分を神と等しい者、神の御子として振る舞い語ってこられたことは事実でした。
 
 こういうイエスの言動に関する情報がたくさん集まってきていましたから、カヤパはイエスに「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」と言ったのです。「はいそのとおり。」といえば、現行犯逮捕、死刑なのですから、万に一つも「はい。そのとおり」という答えが返って来る見込みの無い質問でした。ところが、なんということか!主イエスはお答えになりました。64節「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」
 実に、主イエスはこの法廷における公の自己証言の機会を待ち望んでいらっしゃったのです。キリスト信仰にとって、公の「告白」ということが本質的なことです。
 しかし、これを聞いた大祭司とサンヒドリンの議員は、怒り狂い、イエスを死刑と定めてしまい、つばを吐き掛け、こぶしで、また平手で打って侮辱のかぎりを尽くしました。

26:65 すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「神への冒涜だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、今、神をけがすことばを聞いたのです。 26:66 どう考えますか。」彼らは答えて、「彼は死刑に当たる」と言った。
26:67 そうして、彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、また、他の者たちは、イエスを平手で打って、 26:68 こう言った。「当ててみろ。キリスト。あなたを打ったのはだれか。」

 大祭司と律法学者たちがイエスをなき者にしようとした動機は、実は、イエスがあまりにも真実で自分たちの偽善をあばいてしまうからであり、民衆の人気がイエスに移っていったことをねたんだからでした。しかし、大祭司も議員たちも、この裁判にかんしては、自分たちこそ正義であり、自分を神と等しくしたイエスこそは極悪人であると思い込んでいました。
しかし、イエス様は神の御子でありましたから、ご自分のことを神の御子であり、後の日に最後の審判をするために雲に乗ってくるのだと証言なさったのは、正しいことでした。サンヒドリンは、神様がせっかく遣わしてくださった救い主である御子を死刑に定めるという、歴史上、最大の罪を犯したのでした。
 

2.中庭の法廷

 他方、ペテロです。彼は、官邸のなかで行われている主イエスの裁判のようすをちらちらとうかがいながら、中庭にすわって焚き火にあたっていました。季節は四月初旬。夜になると、少々冷え込みます。突然、サンヒドリン議員たちによる法廷が開かれたので、焚き火の周りには、議員たちの世話のために駆り出された女中やしもべたちが集まっています。ペテロは暗闇にまぎれ込んでいるつもりだったのですが、パチパチ燃える赤い炎に、ペテロの顔が浮かび上がります。すると女中のひとりがペテロの顔をまじまじと見つめながら近づいてきました。

  26:69 ペテロが外の中庭にすわっていると、女中のひとりが来て言った。「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」

 焚き火に集まった人々の視線がいっせいにぺテロに集まります。ペテロはそれに気づいて、顔を背けて必死になって言います。
26:70「何ば言うとっとか?おいにはわからんばい。」
 まずいと思ったペテロは、屋敷の門までじりじりと後ずさりして逃げようとします。すると他の女中たちも、ペテロの顔を覗き込んで口々に叫びます。
26:71 「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」
それで、ペテロは、またもそれを打ち消し、誓って言います。
72節「そげな名前は聞いたこともなか!」
ところが、 26:73 しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる」と言った。
すると彼は、74節「そぎゃん人の名前は聞いたこともなか、ちゅーとろうが。」と言います。のろいをかけて誓い始めた。ガリラヤ弁でごまかそうとすればごまかそうとするほど、文字通りお里が知れるのです。と、
コケコッコー、コケコッコー、コケコッコー!
と夜の闇をつんざくニワトリの声。
その声は、あたかも、「ペテロは有罪。ペテロは裏切り者!ペテロは神の御子イエスを裏切った罪人!」と宣告しているようです。庭の法廷の被告はペテロ。証言者は女中たち。そして裁判官は、なんとこっけいなことに、鶏でした。
ルカ伝の並行記事22章61節に「主が振り向いてペテロを見つめられた。」とあります。どんな眼差しだったのでしょうね。それは怒りのまなざしでもなければ、失望のまなざしですらなく、寂しさと深いあわれみに満ちたまなざしでした。
その瞬間ペテロは、75節「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いたのでした。


3.ペテロとイエス

 以上から最後に二点、確認しておきましょう。

(1)神の御前で、強い者は弱く、弱い者は強くなる
カヤパを判事とする法廷の被告であった主イエスのお姿と、にわとりを判事とする中庭の法廷の被告シモン・ペテロの姿は、あまりにも対照的なものでした。
主イエスは自分のことをさまざまな偽証をもって訴える人々に対して、何の抗弁もなさらず、最後に大祭司カヤパが「あなたは神の御子キリストだというのか」という最も本質的な質問が投げかけられると、堂々と、ご自身がそういう者であると宣言なさいました。
他方、ペテロは、女中たちが「あんたイエスの弟子でしょう」と迫ってくると、怯えて逃げ回り、ついには三度も主イエスを知らないと言って偽証したのでした。最後の晩餐のときにはあれほど自信満々に、「たとい死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申し上げません」といったペテロ、敵に剣を振り上げて斬りかかったペテロが、このときにはあえなく主のことを「あんな奴は知らない」「あんなやつは知るものか」「そんな名前聞いたこともねえ」などと言って否定したのです。「心は燃えていてもからだは弱いのです。だから誘惑に陥らないように祈りなさい」と主イエスはペテロたちに言いましたが、まさにそのとおりでした。勇ましく名誉の討ち死にすることならできたペテロでしたが、つばを吐きかけられ、侮辱のかぎりをつくされ、鞭打ちにされ、十字架に磔にされるという恐怖には打ち勝つことはできませんでした。

主イエスは、ゲツセマネでは父なる神様の前ではまことに弱弱しくなりました。

「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

 他方、自分は他の弟子連中よりも勇気があって強いと去勢を張り、眠りこけていたペテロは敵が脅かし迫ってきたときには恐怖にとらわれてもろくなって信仰を告白することができず、他方、父なる神の前に自分の弱さをありのままにさらけだして、それでも私はあなたのみこころに従いたいのですという祈りをささげた主イエスは、見事に、ご自分が神の御子キリストであることを証言することができたのでした。ここにパラドクスがあります。神の前に自分の弱さを認める者は神によって強くされ、神の前に自分の弱さを認めない強そうな人は、いざとなるとまことに弱いのです。


(2)主の赦し
  主イエスを三度も知らないといったペテロでした。彼はイスカリオテ・ユダとは違って、滅びませんでした。確かに彼の罪は重大でした。主が次のようにおっしゃったからです。

「わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。 10:33 しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」(マタイ25:12,13)

 
しかし、彼が主を拒んだとき、振り向かれた主イエスのまなざしは、主の愛とあわれみをたたえていました。「わたしはあなたの信仰がなくならないように祈りました。だから、立ち直ったら、兄弟たちを励ましてやりなさい。」とおっしゃった主イエス祈りに支えられて、ペテロは立ち直り、後には初代教会の指導者のひとりとなるのです。 主イエスの赦しのわざ、とりなしのわざの力です。
 あなたもまた、もしかするとペテロのように人前でイエス様を拒んだことがあるかもしれません。「今はクリスチャンであることを隠しておいたほうが自分に都合がいい」とやり過ごしたことがあるかもしれません。それにもかかわらず、ここで今、ともに礼拝できているのはなぜでしょう。それは、主があなたのために絶えず信仰がなくならないように祈ってくださったからです。主イエスに赦された者として、もう二度と主を人の前に知らないなどということがない信仰者としての歩みをしてまいりましょう。