苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

入院・手術

 4月1日(月)に市立病院に入院し、翌日、副鼻腔炎の手術をして、昨日6日に退院して来ました。昨年6月にコロナにかかったあと、左耳がよく聞こえないという症状があって近所の耳鼻科に行ってレントゲンをとったところ、左の副鼻腔が真っ白であることが判明しました。その後、投薬治療を続けてきましたが、結局、鼻腔と副鼻腔をつなぐ穴が鼻茸とかいうのができて塞がっているので埒が明きません。そこで、教団理事会の務めが終わり、神学校がお休みになって一週間お休みをとれる時を待って、今回の手術となったわけです。副鼻腔炎の手術の場合、術後、丁寧に処置しておかなければ、再発してしまう可能性が高いので、まず一週間は入院というのが普通なのだそうです。

 入院中は久々ゆったりする時間が持てるかなと思ったのは、入院1日目だけでした。その日は、全身麻酔をするので丁寧に直前検査をいくつかはしましたが、合間に前日に届いたアドラー心理学の本を読了することができました。牧会経験と照らしてなるほどと思えることも多い興味深い内容でした。でも、手術当日は朝昼は点滴ごはんで、午後一時から手術室に移動し、手術台の上に横になりました。テレビではドクターXなどで何度も見ましたから、初めてですが慣れた感じで寝て、全身麻酔のためまず酸素を体中にいきわたらせたあと、麻酔ガスークロロホルムというのでしょうか?ーを吸わされたら、すぐ意識不明となりました。夢を見ることもなく、声をかけられて気が付いたら手術は終わっていました。全身麻酔の手術は楽です。ただ心臓に問題がある場合、危険もあるそうです。
 まず痛かったのは、術後、小用を足すためにトイレに入ったところ、全身麻酔で垂れ流しになることを防ぐために小便のチューブを通されたことで、尿道が傷ついておちんちんの先が、一滴出すだけでウっというくらい痛かったことです。これは三日目の晩にようやく去りました。
 苦しかったのは、左副鼻腔炎の手術なので、左鼻の孔に長いガーゼを4枚詰め込むのですが、右鼻の孔もなぜから両孔に閉塞してしまって息が口でしかできなくなったことです。それでも起きているときは、時々右は息ができるので、まあなんとか過ごせるのですが、午後9時に消灯して午前6時起床までの睡眠時は、自律神経の作用で両鼻孔が閉塞するので、苦しい。こうして眠られぬ夜をガーゼを抜き去るまで過ごさねばなりませんでした。

 もう一つ痛かったのは、ガーゼの抜き去りです。鼻腔・副鼻腔の内壁の粘膜、鼻茸とかいうものを取り去り、副鼻腔つながるくねくねした骨を削り取りましたから、相当、傷がついているわけで、それをガーゼをぎゅうぎゅうに詰め込むことで、止血しているわけです。それを抜き去るという、やや無理なことをするわけです。まずしびれ薬を鼻に注入して10分間待ち、それから長いピンセットで次々にガーゼを取り出すのです。これはウっと声が出ました。人によっては気絶するそうです。
 左鼻孔が開通すると右鼻孔もスース―息ができるようになりました。息ができるというのはありがたいことです。そういえば、神様はアダムを土で造ったとき、鼻の孔から息を吹き込んで(ナーハーシュ)くださり、それで人は生きる魂(ネフェシュ・ハーヤー)となりました。あの時、アダムの鼻の穴が詰まっていなくて、よかったです。

 手術・入院は初めての経験でした。痛いこと苦しいことも少しありましたが、良い経験でした。同室のIさんという75歳の男性に、ヨハネ福音書3章16節から福音をお伝えすることもできましたし。

 今日は主の日ですが、久しぶりに会衆席で礼拝をささげます。東頭戍先生が礼拝の御用をしてくださいます。そんなわけで、つらつら忘れないうちにメモしました。

 

岸見一郎、古賀史健『嫌われる勇気』ーアドラー心理学の意義と限界

 副鼻腔炎の手術で入院初日4月1日、この本を読んだ。アドラーの名は聞いたことはあったけれども、具体的にその内容を知ったのは今回が初めてである。『嫌われる勇気』という書名が強烈な印象を与える。開いてみて面白いのは、プラトンの対話篇風に悩める青年と哲人との対話で話が展開していくことである。というのも、岸見一郎氏はギリシャ哲学の研究者でもあり、彼の見方からいうと、アドラーの心理学はギリシャ哲学の流れを汲んでいるものなので、このようなスタイルがふさわしいと考えたのだろう。実際、この対話篇は面白い。きっと名著として長く読まれて行くだろう。

 さて、その内容であるが、三点に整理できるだろう。対話篇の叙述の順序は下の第二の次に第一なのだが、理解しやすくするため、ここでは順序を入れ替える。

 第一に、人間の問題のすべては対人関係にある。人は自分の人生を生きる時にこそ自由を経験できるのであるが、多くの人は、他人(ひと)からどう思われるか、評価されるかされないか、好かれるか嫌われるかといったことに左右され、絡め取られて、自分の人生を生きていない。それによって不自由になり、自らを苦しめている。承認欲求は捨て去らねばならない。承認欲求は人を不自由にするのである。また人と比べることも自分を生きることの妨げになる。

 第二に、人間は過去によるのでなく未来によって生きるのであるということ。言い換えると、原因の結果として今があるのではなく、目的によって今を選び取っているのであるということ。つまり、生育環境のせいで今の自分がこうだとか、いじめにあったから今の自分はこうだというのではなく、それはアドラーに言わせれば「人生の嘘」だという。過去の影響が現在にないわけではないが、過去のある事柄をどのように解釈して意味付けるかは、あなた自身が選び取ったことなのだ、という主張である。

 この点は明白に人間を原因によって支配されているモノとして見るフロイトユングに対するアンチテーゼである。人間がモノのように、ある原因の結果として現状があるのだとしたら、人間は未来を切り開くことはできない。幼い日に受けたトラウマに支配されて生きる他ないことになる。アドラーは、そういう「原因論」を徹底的に批判し、人は目的によって現在の自分を選び取っているとする「目的論」こそ本当なのだという。だから人間は未来に向かって今とは違う自分を選び取ることができる。そのために必要なことは、勇気である、と。

 第三に、いささか唐突に、あるいは一見、上記の主張に矛盾するかのように、アドラーは対人関係のゴールは「共同体感覚」であるという。共同体感覚というのは、「私は仲間の中で生きている」という感覚である。不自由な時には「私の周りは敵ばかりだ」という感覚だから周囲のご機嫌を取るために自分の人生を生きられなくなっていたのが、「私は仲間の中で生きている」という意識においては「私は自発的に他者に貢献するために仕事をする」ことができるようになる、という。それは承認欲求を満たすためでなく、純粋に他者のため自発的にという点で、第一点の人の生き方と決定的に違う。

水草コメント>

 第一点に関して、「人間の問題のすべては対人関係にある」と主張するアドラーの限界は、彼は神を認めず、対神関係というものを鼻から無視しているということである。対話篇の青年は「神」を認めていないが、対人関係がすべてと言い切る哲人に対して反論している箇所がある。彼はもっと永遠的な事柄が、自分の悩みの根底にあるのではないか、あって欲しいという願いがあることを感じさせる箇所である。創世記1-3章は、私たち人間は対神関係、対人関係の中に置かれたと教えている。無神論という啓蒙主義的な視野狭窄アドラーの限界である。

 とはいえ対人関係に絞ってみて意味ある議論もある。アドラーの主張を、近年流行している表現で言えば、自分と他人のバウンダリー(境界線)をわきまえないところに人間の苦しみがあるということに当たるだろう。「他人は他人、私は私」なのだということをわきまえよということ。

 ガラテヤ書6章には、興味深い箇所がある。「2、互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。(中略)5,人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるのです。」私たちは「他人の重荷を自分のものと感じなければならない」と考えることがある。結果、「すべては私のせいだ」と自分を責めてみたり、他の人が負うべき重荷を奪い取っておせっかい・甘やかしをしてしまうことになる。私はラインホルト・ニーバーの落ち着きの祈りを知って、そういう過ちから守られるようになったと感じている。無神論者には祈りは無益なことであろうけれども。

「神様、私にお与えください、
自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを、
変えられるものは変えていく勇気を、
そして、二つを見分ける賢さを。」(女子パウロ会の訳)

 

 第二点に関しては、アドラーの背景には、ハイデガーの「未来が過去を決定し、現在を生成する」という思想があるように見える(当たっているかどうかわからないが)。また、アドラーハイデガーの背後には主イエスのことばがあるようにも思わせられる。すなわち、ヨハネ福音書9章の生まれながらの盲人を見て、弟子たちが「これは両親のせいです、それとも本人のせいですか」と主に問うたのに対して、「親のせいでも本人のせいでもない。神のわざがこの人に現れるためだ。」と言われたことである。

 アドラーは新しい自分の未来を選び取って行くためには「勇気」が必要だという。ここが超越者なる神を認めない哲学者としての信念であり限界なのだろう。それは<人は真理を知るならば、それを行うことができる。人が真理を行えないのは、十分に真理と知らないからである。>というソクラテスプラトン的信念である。聖書は<人は真理を十分知っていても、それを行うことができない罪の現実の中にある。神が人つまりイエス・キリストとなってこの世に来られたのは、その罪から人を救うためなのだ。>と教える。

 第三点に関しては、第一の「他人は他人、私は私」という生き方だけでは、利己的で反社会的になってしまうので、そういうことを意図しているのではないという説明として、アドラーは共同体意識を持ち出していると考えられる。以前のように人からの評価が欲しくて、つまり承認欲求を満たすために何かをするのではなく、自発的に喜ばしい奉仕の精神をもって、他者のために何かに取り組んでいくのである。これはコリント書12章の教会共同体についての教えと重なる。「みなの益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。」(12:7)キリスト者にとってのよき業「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」ということにあたる。

 以上のように岸見、古賀両氏のアドラー心理学紹介対話篇を理解して、思ったところをメモしてみた。ソクラテスプラトン相対主義・物質主義的な当時の世相の中で、「よく生きること」を目指して知を愛し、イデアにあこがれた哲学者だった。それは人間を過去の原因に縛られたモノとして捉えるフロイト流心理学に対して、アドラーが人間を未来の目的に向けて選択する自由な存在として捉えたことと類比の関係にある。アドラー心理学の感動的な主張にもかかわらず、世的にはフロイトの影響力がはるかに大きく見える。それはアドラーの主張は、理想主義にすぎるとみられるからだろう。

 では、聖書は人間の現実をなんというか?「神のかたちなるキリスト」になぞらえて創造された人は、本来、善を求める。だが、人はアダムにあって堕落してしまって以来、罪への傾向性を免れることができないから、善を求めながら善をなしえずかえって悪を好む自分と葛藤しているのだという。そういう人間を救うために「神のかたち」キリストは人となって来られた。我々はキリストへの信仰によって、新しい人とされて、罪の縄目から解放されて、善を自発的に求める者と変えられる。 こうして見ると、アドラー心理学はキリスト信仰に類似している点が多い。「神なきキリスト教」という感じである。ただしアドラーにおいては肝心の神がいないから、彼のいう「勇気」がどこから湧いてい来るのかがわからない。

 

十字架と復活!

魔除け?

 「十字架って、何の道具なのかわかりますか?」と聞いたら、ある人は。「・・・魔除けですか?」と答えました。「それはドラキュラ映画の影響ですか。確かにドラキュラに十字架を近づけるとギャアとか言って逃げ回りますが・・ハズレです。」

 十字架というと、首から下げるペンダントとしてシンプルで清楚なデザインが良いからでしょうか、定番のものとなっています。でも十字架は、古代ローマ帝国の時代に用いられた残忍な死刑の道具でした。今の日本で言えば絞首刑の縄、アメリカで言えば電気椅子、昔のフランスでいえばギロチンにあたるもの、それがもともとの十字架です。恐ろしく忌まわしいものです。しかし、その恐ろしく忌まわしいものが紀元三十年四月、すばらしい神の愛のシンボルに変わりました。何があったのでしょう?

 

家出息子みたいに 

 神とは万物の造り主です。造り主である神は、ご自分の作品である人間ひとりひとりのことを心に留めていらっしゃいます。あなたのことも目にとめていてくださいます。けれども、多くの人は「確かに宇宙の運行を可能にしている自然法則を見ても、人間のからだの仕組みの精巧なありさまを見ても、これが偶然とは思えない。これらを造ったお方をもし『神』と呼ぶならば、『神』は存在するんだろうね。でも、その『神』が全宇宙から見たらゴマ粒ほどの地球上に生きている私に心をとめているというのは、なんだかよくわからない。実感がわかない。」というのです。

 なるほど、その通りです。神は人間を造ってくださったけれども、人間はこの神と絶交してしまったのだと聖書は教えています。ちょうど親の監督を嫌って家を飛び出した家出息子が、家に電話をすることもできないでいるように、神と人との間には断絶があるので、人は神の愛を実感できなくなっています。

 神と人との断絶には二つの側面があります。一つは、神は無限の存在であり、人はちっぽけで有限な存在であるということです。神は全知全能ですが、人間は有限な知識しか持ってないし、その能力もかぎられています。「あなたの指のわざであるあなたの天あなたが整えられた月や星を見るに人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」と旧約聖書の詩人は歌っています。

神と人との断絶のもう一つの面は、神は無限にきよくて正しいお方であるのに対して、私たち人間は汚れていて、その心で、その舌で、その手で神には喜ばれないことをしてしまっているということです。三時になるとお母さんといっしょに楽しくおやつを食べる三歳児が、その日にかぎってお母さんの顔を見ようとせず「ぼくはおやついらない」と言っていたら、その子はきっと、何か叱られるような悪いことをしたのでしょう。私たちは、神様に顔向けできない罪を抱えています。

 イエス・キリストは、この神と私たちを隔てている、存在における断絶と、罪による断絶を解消してくださいました。

 

無限と有限の断絶に架け橋(受肉

 永遠の昔、この世界が存在する前から神の御子イエスは父なる神と愛のまじわりを持っていました。御子イエスは、父のご計画にしたがって、無から万物を創造したのです。特に人間は御子をモデルとして造られました。そして、神を愛し隣人を愛し世界を神の王国とすることが期待されていました。愛は自由意志のあるところに成り立つものなので、人間はロボットではなく自由意志ある存在として造られました。けれども人間は、その自由意志を悪用して、神に感謝も礼拝もせず、自分勝手に石や木を刻んで、それを神として拝んだり、また人間同士もたがいに嘘をついたり、憎んだり、ねたんだり、裏切ったり、盗んだり、恨んだり、殺意を抱いたり、汚らわしい情欲にふけったりして、日々、最後の審判に向けて罪に罪を重ねて歩んでいます。しかし、聖書は「人には一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている」と告げているのです。

 そこで二千年前、父なる神は御子イエスをこの世界に遣わされました。御子イエスは神でありながら、人としての性質をもって生まれました。このようにして、神の御子イエスが人となって、無限な神と有限な人との存在における断絶の橋渡しとなってくださったのです。「神はまどろむことも眠ることもない」と聖書には書かれていますが、イエス様はその伝道生活で疲れ果てて、ガリラヤ湖に浮かんだ舟のともに枕してぐっすりと眠っておられたと、福音書には書かれています。またイエス様はのどが渇くこともあれば、お腹がペコペコになることもありました。愛する友が死んで涙を流されたこともありますし、激痛に苦しまれたこともあります。

 「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」(へブル4・15)

 ですから、私たちはお腹がすいたときも、どうしようもなく悲しい時、寂しいときも、お腹が痛いときも、不安なときも、「助けてください」とお祈りし、聞いていただくことができます。神は、御子イエスにあって、私たちに近いお方となってくださったからです。

 

罪による断絶の架け橋(十字架)

 もうひとつの神と私たちとの断絶は、罪による断絶です。神は聖にして義なるお方です。罪から来る報酬は死です。「罪」とはなにか?

 罪とは、第一に真の神を愛さないことです。創造主である神を礼拝せず、被造物にすぎない鳥や獣や死者や生きている人と神のように拝むこと、また、神の存在を否定して、人間は自力て生きられるのだと思い上がっていることです。

 罪とは第二に、隣人を自分自身のように愛さないことです。聖書のいう罪のリストは次のようなものです。「彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。また彼らは、あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれています。また彼らは陰口を言い、人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です。彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです。」さらに聖書は「ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。」と続けます。つまり、「私はこんな罪のリストに上げられている汚れたことなどやっていないよ。」と威張っているあなたは、心の中までご覧の神から見たら偽善にすぎないというのです。

 神は聖なるお方であり義なる審判者でいらっしゃるので、罪を抱えたままでは、神との交わりに入ることはできません。天国に入ることはできないのです。神と人との間には、罪による断絶があります。この神と人間とを隔てている罪の問題を解決するために、神の御子イエス・キリストが十字架にかかってくださいました。他人の罪を背負って救う人は罪なき人でなければなりません。ところが、人間には例外なく罪があります。「義人はいない一人もいない」のです。そこで、聖なる神の御子が人となって、二千年前この地上に来てくださり、完全な愛の生涯の後に、十字架にかかって私たちの罪に対する呪いをその身にひき受けてくださったのです。

「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」(2コリント5’21)とある通りです。

 父なる神は正義の審判者として、罪を見過ごしにはできず、罪に対しては罰を与えねばなりません。しかし、神は罪を犯した私たち人間を救ってやりたかったのです。そこで父は、御子を人として遣わしたのです。御子イエスは自ら進んで十字架にかかって苦しんで死ぬことによって、私たちの罪に対する罰を引き受けて「父よ。彼らをゆるしてください。彼らは自分で何をしているのか、わからないのです。」と十字架上で祈ってくださいました。十字架にかかった愛するひとり子の祈りを聞いた、天の父の胸は悲しみと御子へのいとおしさで引き裂かれてしまいました。 

 御子キリストは義なる神と、罪ある私たちとの間の架け橋となってくださいました。こうして、キリストは二重の意味で神と人との架け橋となってくださいました。

 「神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。」(1テモテ2・5)

復活の喜び

 主イエスは午後三時に息を引き取られ、密かに弟子となっていたヨセフという人がなきがらを引き取って自分の家の墓に安置しました。すると、当局は大きな石をもって封印し、番兵を立てました。ところが、三日目の朝、主イエスを慕った女たちが墓に出かけてみると、巨大な封印石は横に転がされているではありませんか。女たちが墓穴をのぞき込むと、そこにはまばゆいばかりの衣を来た青年がいます。女たちが恐ろしくなって、地面に顔を伏せると、青年は言いました。

「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」

 その日の夕方のことです。弟子たちは、ユダヤ人によるイエスの残党狩りが始まるのではないかと恐怖にふるえながら隠れ家に集まって、「いったい、イエス様のなきがらはどこに行ってしまったのだろう。」と話していました。

すると、イエスが彼らの真ん中に立ったのです。以下引用です。

「彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。『なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。』こう言って、イエスは彼らに手と足を見せられた。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていたので、イエスは、『ここに何か食べ物がありますか』と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で召し上がった。」(ルカ24・37‐43)

 主イエスが弟子たちをびっくりさせようといたずら心を起こしてドアを開けずに現れたので、弟子たちは幽霊だと思い、イエスの復活を信じてくれません。イエス困ってしまい、腕まくり、裾まくりして、焼き魚まで食べて復活を実証しました。まばゆいほど明るい場面です。イエスを信じなさい。罪は赦されて、神の国に入れます。

椅子

 冬の間運動不足になっていて、しかもヘイワースの椅子の腰当(ランバーサポート)が壊れていたので、自宅で書斎仕事を二三時間すると立ち上がるとき大変になりました。そこで、いい椅子ないかなあとジモティーで見たら、西方のお店にバウヒュッテがあることがわかったので、見に行きました。かなり使っていて汚れもあります。価格は5野口半。ほかにもたくさんきれいな椅子がありましたが、座り心地はバウヒュッテが一番でしたから、エイッと決めました。ゲーミングチェアというのは、ながーく座りっぱなしで腰が痛くならないように工夫されています。わたしにはゲームの趣味はないのですが。
 若い同労者によく勧めするのは、腰に良い椅子と目にやさしいパソコン画面と指にやさしいキーボードは、何とかして手に入れるのが得策だということです。

 

 ところで、腰によい椅子というと、使用者の体格にあわせてあちこち調節できるアーロンチェアを代表とする高機能チェアがあります。でもアーロンなど値段を見ると出目金になります。私はヤフオクで見つけたへイワースX99の中古を長らく使ってましたが、あちこち調整できる椅子というのは、まただんだんと緩んで狂ってくるものです。

 ほんとうに自分に最適な椅子というのは、調整などできないけれど、ずっと座ってて楽な椅子です。でも家具屋さんで2時間も座って確かめられませんから難しい。意外でしたが、私の場合はリサイクルショップで1野口で売っていたサンコウ 0018382 ロックIIが一番疲れません。なんで1野口かというと、ヘッドレストの部分にネコのひっかき傷がいっぱいだったからです。今調べたら新品は16800円とあります。この椅子は高低以外どこも調整できませんが、午後座りっぱなしで仕事をしても大丈夫です。今は、これを会堂の牧師室で使っています。
 もうそろそろ気温も氷点下にならなくなってきましたから、日課の自前トラクト配布を1時間くらいすれば、腰痛はなくなるでしょう。

聖書信仰に生きる教団

 苫小牧福音教会が属する日本同盟基督教団は「聖書信仰を土台とし、宣教協力をするために、合議制を採る」ことを教団の三本柱としている。では「聖書信仰を土台とする」とはどういうことなのか。教団の信仰告白第一項には次のようにある。

 旧、新約聖書66巻は、すべて神の霊感によって記された誤りのない神のことばであって、神の救いのご計画の全体を啓示し、救い主イエス・キリストを顕し、救いの道を教える信仰と生活の唯一絶対の規範である。

 聖書66巻が同盟基督教団にとって唯一絶対の規範である。このように告白しなければならないのは、同じくキリスト教を名乗っていても、権威はただ聖書66巻のみとしない団体が存在するので、それらと区別するためである。

 ローマ・カトリック教会にとっての権威は、聖書と伝統の二つである。だから、カトリック教会では聖書に根拠のないマリア崇敬や聖人崇敬など伝統に含まれることも行う。また彼らの聖書には外典も含まれている。

 近代主義神学を採用している教会にとっての権威は、合理主義的理性である。だから彼らは聖書を解釈するにあたって、合理主義的理性にかなわないキリストの受肉・復活といった奇跡の類は「非神話化」して解釈する。さらに現代社会の常識の変化に合わせて聖書の福音解釈をも変更して行く。たとえば、人間観について近代主義の前提は楽観的人間観であるから、近代主義神学は原罪を否定する。また贖罪論についても、「キリストは十字架にかかって聖なる神の怒りを身代わりに受けてくださった」という聖書が教える代償的贖罪は残酷で不合理であると拒否して、主観的・道徳感化説を唱えている。

 聖書を唯一絶対の規範とする同盟基督教団に属する者であっても外典を禁書にしているわけではないので、読んでも構わないが、それは権威ではないから聖書を物差しとして批判的に読む必要がある。また、聖書を唯一の権威とするというのは、社会の動きに対してもまったく耳を傾けないというわけではない。時代を理解する必要はあるし、そこから学ぶべき真理契機もあろうが、聖書を物差しとして取捨選択するのである。真理を測る物差しは聖書66巻のみである。この世の風潮を物差しにして、「教会は二千年間誤解していた。聖書はほんとうはこんなふうに教えているのだ。」などと言って、無理な新解釈をひねり出すことは避けねばならない。このことは3月22日の「教会の改革とは」で書いたとおりである。

教会の改革とは 

 「改革された教会は常に改革され続けなければならない(羅semper reformanda ecclesia reformata)」という標語がある。ある人々は、現代の世の風潮に合わせることが教会の改革だと思い込んでいるようだが、大間違いである。「改革された教会は、常に、神のことばによって改革され続けなければならない(ecclesia reformata semper reformanda secundum verbum dei)」のである。

 それはなにも教会は絶対正しいのだから、一切この世の考え方に耳を傾ける必要がないと言っているのではない。この世の文化と教会の違いが出て来たときには、安易にこの世に同調するのでなく、改めて「違い」を聖書に照らして検証すべきである。その結果、教会のあり方が聖書に適っているならば、この世の文化に合わせてはならない。けれども、時にはこの世の文化と教会のずれを聖書に照らしてみた結果、かえって教会の伝統の方が聖書からずれていたのだということが判明する場合がある。その時には教会は伝統を墨守するのではなく改革すべきである。それはこの世に合わせるのではなく、聖書に自らを合わせているのである。物差しは聖書である。

 一例を挙げてみれば、伝統的教会では礼拝で用いる楽器はオルガンに限られて来た。しかし、1970年頃からギターでゴスペルフォークがつくられるようになってきた。伝統的教会にギターを持ち込むことに眉をひそめる人々が多かった。だが、「きよしこの夜」は最初にギターで奏でられたのだなどという逸話を聞かされたりして、だんだんと馴染んできた。さらに2000年くらいになると、礼拝にドラムス(太鼓とシンバル)が持ち込まれる教会も増えて来た。もし何も考えないで単にこの世に合わせて、そうしたのだとしたら、それは良くない。だが、楽器に関していえば、旧約聖書詩篇150篇3‐5節には次のようにある。

角笛を吹き鳴らして神をほめたたえよ。琴と竪琴に合わせて神をほめたたえよ。
タンバリンと踊りをもって神をほめたたえよ。弦をかき鳴らし笛を吹いて神をほめたたえよ。
音の高いシンバルで神をほめたたえよ。鳴り響くシンバルで神をほめたたえよ。

角笛はトランペットに、笛はフルートやクラリネットに、琴と竪琴はピアノとギター、タンバリンとシンバリンはドラムに当たる。オルガンだけを正当として、こうした管楽器、弦楽器、打楽器を教会から締め出す聖書的な理由はない。ただし、賛美とは音楽をともなった祈りであるから、どんな楽器であれ、祈りの妨げになるような音楽・伴奏はよろしくない。賛美においては、音楽が祈りに先行してはならない。ことばによる祈りを支えるのが、礼拝における音楽の役目である。賛美のことばに相応しいメロディや伴奏でなければならない。

 だが、この世の風潮と教会のあり方のずれを聖書に照らしてみた結果、この世の風潮の方が聖書から外れていることが明かならば、この世と調子を合わせてはいけない。この世と調子を合わせると、教会は塩気を失った塩になってしまう。最近この世の裁判官が同性間の結婚を禁じることは憲法違反であるという判決を出した。裁判官がこの世の風潮に流されて、神の戒めに背いているのである。聖書の結婚観は、創世記1章、2章にあるとおり、男と女が結ばれることを意味している。さもなくば「産めよ、ふえよ」とは言われなかった。

「神は仰せられた。『さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。』神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」」創世記1:26-28               

「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」

                             創世記2:24

 

1,ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
2,この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。

                               ローマ12:1,2

 

多であること一であること

 父子聖霊の唯一の神が、多様にして一つの世界を創造したと信じているキリスト教会は、世が一斉に「統一性」を強調する時代には「多様性」の重要性を語らねばならないし、世をあげて「多様性」を強調する時代にあっては、「一つ」であることの重要性を語らなければならない。へそ曲がりというのでなく、世に流されずにぶれずに変わらない真理を語り続けよということ。そうでなければ、単なるミーハー、塩気をうしなった塩になってしまう。

 ダイバーシティとか多様性ということばを一日に何度も聞かされる現代にあって、私たちは唯一のものを聖書で確認する必要がある。聖書が教会の土台であり、唯一の物差しだからこの世に調子を合わせてはいけない。ただ、それを個々の状況、当事者に適用するにあたっては、一人一人をたいせつに羊飼いの心をもって、ということである。だが当事者に寄り添うだけでは、多元主義相対主義に陥ってしまうし、彼らを唯一の真理であるお方に導き、救うことはできない。

「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」ローマ12:2

 

 「当事者の声を聴くことが大事だ!」と感情的になる人は、頭を冷やしてへりくだって聖書のいう真理は何かに思いをいたすべきであり、「聖書の真理はこうだ!」ということがわかっている人は、心柔らかくして当事者の声に耳を傾け、どうすれば当事者をその唯一の真理に導くことができるかを祈り考えるべきである、ということ。

 

koumichristchurch.hatenablog.jp