苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

同性間性交に関する、聖書に基づくメモ(加筆再録)

 クリスチャン新聞2022年5月22日号が「教会とLGBTQ」という特集記事を掲載した。それを読んだある知人が水草の見解を明らかにするように、と手紙をくださった。その記事は「聖書をどう読む 冷静に検討促し LGBT肯定を評価」というのが第一面の見出しとなっている。

 聖書をどう読むかを冷静に検討することには大賛成なので、伝統的見解に固執せず、さりとて、今日の世間の風潮にも流されず、以前、このブログにアップした聖書の教えのメモに加筆修正して再掲載しておく。加筆したのは「1」の思想史メモ。

 

1 中世・近世・近代・現代思想の流れと神学への影響

 まず思想史的なことをメモしたい。16世紀、宗教改革が起こり、改革者たちは聖書から離れ迷信的儀式主義に陥っていたローマ教会の束縛から解放され、聖書に忠実に従うことを目指した。17世紀は専制君主制の下、国教会主義が聖書に忠実に歩む教会の束縛となったので、国教会の束縛から解放を求める自由教会の歩みが始まった。自由教会の自由とは、国家の束縛から自由にされ、聖書に忠実に従うことを目指す自由である。

 他方、同じ時代に啓蒙主義者たちは専制君主制国家と国教会の束縛だけでなく、理性を神のことばである聖書の束縛からも解放することを目指した。啓蒙主義は究極的に個人の理性による自律がその目指すところである。啓蒙主義自由主義神学は、その影響を受けている。自由教会の自由と、自由主義神学のいう自由とはまったく意味が違うので注意しなければならない。つまり、宗教改革者とその霊的子孫は、ローマ教会・専制君主制・国教会の束縛から解放されて、聖書に忠実な生き方を目指しているのに対して、啓蒙主義自由主義者・人権論者はローマ教会・専制君主制・国教会のみならず聖書の束縛からも解放されて、少数者・個人の自律を目指している。つまり、「何から解放されることを目指すか」という点では宗教改革の子らと、啓蒙主義自由主義の子らは共通しているのだが、「何を目指しているか」という点で、宗教改革の子らと、啓蒙主義自由主義・人権論者とはまったく異なっているのである。

 啓蒙主義は神学に影響を与えて、啓蒙主義神学・自由主義神学が現れる。啓蒙主義神学とは理神論である。自由主義の発端のシュライルマッハーは、啓蒙主義では情緒的な面が欠けると批判して汎神論的神への絶対依存の感情を宗教の本質とする。その流れから「解放の神学」が現れた。発端は米国資本によって収奪されていた中南米貧困層の解放運動のため戦った神父たちの主張である。それがさまざまな少数者・弱者の解放に適用されることになり、解放されるべき少数者・弱者とは、中南米貧困層、米国社会で差別されてきた黒人、日本における被差別部落、身体障碍者、女性、そして、今日LGBTQとされているわけである。啓蒙主義自由主義由来の運動の刺激が、いくつかの点で旧来の誤った聖書解釈を正したのは事実であり、それは有意義なことである。しかし、だからといって少数者の行動であれば、みな是とせよと聖書が教えているわけではない。

  聖書は「裁判では人を偏って見てはならない。身分の低い人にも高い人にもみな、同じように聞かなければならない。人を恐れてはならない。さばきは神のものだからである。」(申命記1:17)と教える。えてして権力や富のある者、多数派に偏ったさばきがなされがちであるから、「あなたがたは心の包皮に割礼を施しなさい。もう、うなじを固くする者であってはならない。あなたがたの神、主は神の神、主の主、偉大で力があり、恐ろしい神。えこひいきをせず、賄賂を取らず、みなしごや、やもめのためにさばきを行い、寄留者を愛して、これに食物と衣服を与えられる。あなたがたは寄留者を愛しなさい。あなたがたもエジプトの地で寄留の民だったからである。」(申命記10:16-19)とも教えられている。だが、少数者・弱者だからなんでもOKだと聖書が教えているわけではなく、正義の神は さばきは公平である。

「不正な裁判をしてはならない。弱い者をひいきしたり強い者にへつらったりしてはならない。あなたの同胞を正しくさばかなければならない。」レビ記19:15

 

 

2 同性間性交に関する聖句

 

(1)創世記における、神が定めた結婚の秩序

創世記1:28

「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。』」

創世記2:24

「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」

 創世記1章、2章は、同性間性交を明確に禁止している箇所ではない。しかし、創造つまり堕落前の正常な状態において、神は、性交は夫婦(男女)の間で行なわれるものとして定めたことを教えていることは確かである。男女の性交でなかったならば、生むことも増えることもありえなかった。

 

(2)旧約における同性間性交の禁止

レビ記18:6-25の特に22節

6だれも、自分の肉親の者に近づき、相手の裸をあらわにして交わってはならない。わたしは主である。・・・(以下もろもろの近親相姦リスト中略)・・・

20また、自分の同胞の妻と寝て交わり、彼女によって自分を汚してはならない。

21また、自分の子どもを一人でも、火の中を通らせてモレクに渡してはならない。あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。

22あなたは、女と寝るように男と寝てはならない。それは忌み嫌うべきことである。

23動物と寝て、動物によって身を汚してはならない。女も、動物の前に立って、これと交わってはならない。それは道ならぬことである。

24あなたがたは、これらの何によっても身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている異邦の民は、これらのすべてのことによって汚れていて、

25その地も汚れている。それで、わたしはその地をその咎のゆえに罰し、その地はそこに住む者を吐き出す。」

 カナンの住民たちが滅ぼされた理由となった諸々の習俗(近親相姦・姦通つまり異常な異性間性交・月経中の性交・モレク神への子ども奉献・獣姦)と並んで、同性間性交が禁じられている。同じような文脈で、レビ記20:13も同性間性交が禁じられている。読者は自分で文脈を吟味されたい。

「男がもし女と寝るように男と寝たなら 、二人は忌み嫌うべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。」(レビ記20:13)

 レビ記の律法は必ずしも新約の時代には適用されないから、同性間性交は問題ないという主張がある。だが、これらのもろもろの罪のリストの中の一つに男色があることを見れば、そういう主張には無理があると認めざるをえまい。

 

(3)新約における諸々の罪のリストの中の同性間性交

 使徒パウロは、神の国を相続できない諸々の罪のリストの中に、男色をする者を挙げている。 

 「あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者男色をする者(アルセノコイタイ、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」(1コリント6:9、10、11)

 「すなわち、律法は正しい人のためにあるのではなく、不法な者や不従順な者、不敬虔な者や罪深い者、汚れた者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、淫らな者、男色をする者、人を誘拐する者、噓をつく者、偽証する者のために、また、そのほかの健全な教えに反する行為のためにあるのです。」(1テモテ1:9,10

 ある人々は上記のアンダーラインのことば「男色をする者」と訳された「アルセノコイタイ」は男性売春、性的虐待を限定的に指しているのであって、同性間性交を一般に罪としているわけではないと主張するのだが、テモテ・コール氏によれば、この主張には無理がある。

 第一に、紀元1世紀のユダヤ人ヨセフスによれば、当時、男性同士の性行為は禁止されていた。

 第二に、当時、男性売春、性的虐待を意味することばとしては、パイデラスタイ、パイドマナイ、パイといったことばがあったから、もしパウロが男性売春、性的虐待を意味したかったならこれらの語を使ったはずである(Robert Garnon,The Bible and homosexual Practiceを参照)。 しかし、パウロはこれらのことばを使わず、あえてアルセノコイタイという語を使った。アルセーは男性を意味し、コイテーはベッドを意味する。「アルセノコイタイ」は、パウロレビ記20章13節の70人訳ギリシャ語聖書のことばから造語したのである。

「男がもし女と寝るように男と寝たなら 、二人は忌み嫌うべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。」(レビ記20:13)

καὶ ὃς ἂν κοιμηθῇ  μετὰ  ἄρσενος κοίτην γυναικός, βδέλυγμα ἐποίησαν ἀμφότεροι· θανατούσθωσαν, ἔνοχοί εἰσιν.(70人訳)

  パウロがこの語を用いたのは、男性売春、性的虐待に限定せず、レビ記を背景として「男と寝る者」「男色」という広い意味で使うためである。レビ記の戒めを背景として、男色は、偶像崇拝、姦淫、不品行、泥棒、不敬虔、親殺し、誘拐、偽証、酒におぼれることといったもろもろの罪と同列にされる罪であるとパウロは教える。

 1コリント6:10-11から私たちが学ぶべきことは2つある。
 第一は、同性間性交という行為は神の前に罪であるということである。同性間性交という行為は、偶像礼拝、姦淫、窃盗といったことが単なる嗜好として片付けられないのと同様に、単なる嗜好として片付けてはならない。

 しかし、第二に注意すべきことは、同性間性交という罪は、偶像礼拝、淫行、姦淫(つまり則を越えた異性間性交)、窃盗、略奪、泥酔その他のコリントの住民の習俗のうちに見られたもろもろの罪の一つとして扱われているということである。不道徳な町コリントの人々の中から救い出された者として、これらの罪に逆戻りしてはならないと警告しているが、これらの罪を再び一度でも犯したら悔い改めの余地なく地獄行きだなどと教えているのではない。パウロは前の5章で罪と戒規の問題を扱っている。戒規は本人の悔い改めと救い(5:5)、教会全体への罪の感染防止のためになされる(5:6)。しかし、もし罪を罪と認めて悔い改めず、常態的に罪に溺れる生活をしているならば、その人は神の国を相続できないと警告しているのである。もしキリストを信じる者となったのに、たまさかこれらの罪に陥ってしまったときには、戒規を受けて悔い改めて主に立ち返れと勧めているのである。

 だから、同性間性交は罪に当たらないと教えることは、誤りであり、危険なことである。それは偶像礼拝も窃盗も姦淫も罪に当たらないと教えることと同じである。

 

(4)断罪される同性間性交

 レビ記1コリント、1テモテでは男色が取り上げられて罪とされるが、ローマ書では、偶像礼拝の罪の後に、女性の同性間性交が「自然に反するもの」つまり神の創造の秩序に反するものとして挙げられ、その後に、もろもろの罪のリストが掲げられている。

 「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、 同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。」(ローマ1:2627

 

 以上のように、聖書が同性間性交を罪と定めていることは、好むと好まざるとにかかわらず、疑いのない事実である。

 

 

3 同性に性的指向を持つことと、同性間性交という行為をすることは区別されるべきである

 

 同性に性的指向を持つ人が存在する。先天的要因があるとも後天的要因によるとも言われる。ただし、昨年秋の北海道聖書学院での講義でのテモテ・コール師のレポートによれば、性同一性障害が先天的なものであると先頭に立って主張してきたジョンズホプキンス大学医学部は、近年その見解を翻したそうである。

ジェンダー部門の研究をしていたマクヒュー博士は、性同一性障害は、先天的な要素も少しはあるかもしれないが、ほとんどが後天的なものであると主張し、学部長の時、性転換手術やホルモン治療を一切やめた。やってはいけないことと主張した。」また、

「ジョンズホプキンス大学医学部は性転換手術を開発したが、追跡調査により性転換手術者の自殺率が一般の人の20倍ほど高くなっていることが判明し、方針を変えた。」ともレポートされた。

 とはいえ、「先天的な指向であれば、本人にはどうしようもないことなのだから、それはそのまま是とされるべきである。」という論法に、聖書を神のことばであると信じるキリスト者は同意できないだろう。なぜなら、聖書は、人類はアダムにあって堕落したために、全ての人はそれぞれ生まれながらに、何らかの罪への指向を持っていて、それ自体、罪深く残念なことであると教えているからである。たとえば、主イエスは「『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。」(マタイ5:27,28)と教えられた。

 さらに、私たちは先天的な罪への指向に加えて、後天的にも罪への指向をもつようになる。偶像崇拝に親しむ文化の家庭や社会に育った元異教徒の中には、回心して後も偶像の宮に親近感を抱いてしまう場合がある。そうした感覚をもっていることは残念ではあるが、その感覚を教会が断罪することはできまいし、すべきではあるまい。しかし、偶像崇拝を実行してしまえば罪であるから、悔い改めが必要である。また、泥棒の家庭に育ち、幼い日から手際よく盗むとほめられて育てられて、盗癖がついてしまった人がいる。そういう盗みへの指向を持っていることは残念だが、盗みを実行しなければ教会は断罪すべきではあるまい。しかし、そういう人が盗みを実際に行えば罪であるから、悔い改めが必要である。

 この堕落した環境の中に生まれて来た我々は、多かれ少なかれ、それぞれに先天的・後天的に何か罪への指向を持っていて、それは残念な現実であり、本人は苦悩せざるをえないが、それを実行しなければ断罪すべきでなく、むしろ、キリストにある赦しと希望を告げるべきである。実行した場合には、悔い改めてキリストに立ち返るように導く必要がある。

 同じように、先天的あるいは後天的に、同性に性的指向を持つ人がいる。その指向があることは残念だが、断罪されるべきではない。むしろ、キリストにある赦しと希望を告げるべきである。しかし、もし同性間性交を実行するならば罪であるから悔い改めを求めることが、その人を神の前に生かすことである。

 

関連する投稿 

koumichristchurch.hatenablog.jp

ジェンダーを理解する3

koumichristchurch.hatenablog.jp

ジェンダーを理解する4

koumichristchurch.hatenablog.jp

 

 

神殿崩壊の前兆か?再臨前の前兆か?

 主イエスエルサレム神殿が崩壊することを告げたことをきっかけに、弟子たちは主にその予兆について質問した。第一にその予兆は1世紀の出来事を指しているという解釈と、第二にその予兆は主の再臨前の世の終わりのことを指しているという解釈と、第三にその両方を指しているという解釈とがある。いずれの解釈が正しいのか。

 この件については、三つの福音書に並行記事があるのでまずここに掲げてみる。

 

マタイ24:1‐3

1 イエスが宮を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに向かって宮の建物を指し示した。
2 すると、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはこれらの物すべてを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」

3 イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。

 

マルコ13:1-4
1 イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
2 すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」
3 イエスがオリーブ山で宮に向かって座っておられると、ペテロ、ヤコブヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに尋ねた。
4 「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。また、それらがすべて終わりに近づくときのしるしは、どのようなものですか。

 

ルカ21

5 さて、宮が美しい石や奉納物で飾られている、と何人かが話していたので、イエスは言われた。
6 「あなたがたが見ているこれらの物ですが、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることのない日が、やって来ます。」
7 そこで彼らはイエスに尋ねた。「先生、それでは、いつ、そのようなことが起こるのですか。それが起こるときのしるしは、どのようなものですか。

 

 マルコ伝とルカ伝だけを見れば、「そのようなこと」「それ」がさしているのは、直前の主のことばの中のエルサレム神殿の崩壊を指していると見える。この立場の人々は、「キリストが来る」ことを告げるマルコ13:26、ルカ:21:27は再臨を指すのではなく、キリストの天における着座を意味すると解釈する。だが、キリストの着座は主が天に昇って行かれた紀元30年のことであり、エルサレム陥落は紀元70年であるから無理な解釈である。

 他方、マタイ伝の並行記事を見れば、「いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」とあるから、1世紀のエルサレム神殿崩壊の前兆および、世の終わりの主の再臨の前兆について問われていることは明白であって、議論の余地はない。

 1世紀の神殿崩壊の予兆と再臨の予兆の両方が告げられたというのが、多くの人には不可解なのだろう。ここには、神の国がすでに来たが、神の国はまだ来ていないという、新約聖書における終末の啓示の基本構造が現れていると解すべきであろう。

生まれて初めて道路工事?

 今日は妻といっしょに会堂玄関ポーチとアスファルト道路の間に隙間ができてしまったので、そこにアスファルトをうめる工事をしてみました。今はホームセンターに穴埋めして水をかけて固める便利なものが売られています。マイルドパッチとかいうのです。
 道路工事(?)をしたのは、生まれて初めて。そういう隙間にうめるには、結構な量がいることがわかりました。そういえば、今、うちの教会に道路工事に燃えている若い姉妹がいます。

偽預言者の特徴

 また偽預言者運動が流行っているそうです。そういう人々は、「幻」や「預言」体験を聖書以上に重んじるという共通した特徴があります。それ以外にも、最近の流行としてはコロナワクチン陰謀論を振り回し、死者のために祈るということがあるそうです。(緊急で見切り発車したコロナワクチンの安全性については問題があるのは事実であるでしょうが。)またそういう人々、諸団体は主イエスが来られて信徒を空中に引き上げる「携挙」の時期を予言して人々を不安にさせているということです。また、偽預言者は自分たちは特別な啓示をもっているとして、聖書を信仰と生活の唯一絶対の規範とする既存の教会を批判し、争い・党派心・分裂・分派を引き起こすものです。

 主イエスは「偽預言者が多く起こって、多くの人を惑わします。」(マタイ24:11)と予告しましたから、その種の偽預言者は次々に起こってまたあぶくのように消えていくもので、格別珍しいことでもありません。主イエスが話された偽預言者の特徴は次の通りです。

15**,偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。**
16**,あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。**
17**,良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。**
18**,良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。**
19**,良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。**
20**,こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。**
21**,わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。**
22**,その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』**
23**,しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』

                        (マタイ7:15-23)

預言者の特徴

1.偽預言者は表面的は羊のように見えるが、中身は狼のように貪欲である。彼らは「私は偽預言者です」とは自己紹介しない。表面的にはとても良い人である。

「こういう者たちは偽使徒、人を欺く働き人であり、キリストの使徒に変装しているのです。しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の御使いに変装します。ですから、サタンのしもべどもが義のしもべに変装したとしても、大したことではありません。彼らの最後は、その行いにふさわしいものとなるでしょう。」(2コリント12:13-15)

2.偽預言者は主イエスの名によって預言し、主イエスの名によって悪霊を追い出し、主イエスの名によって奇跡を行い、そういう行いが自分が真の預言者である証拠であると思っている。つまり偽預言者は教えの正しさよりも、ある種の霊的体験を優先する。イエスの名によって不思議なことをし、霊的体験を与えてくれるからといって、それが本物の預言者とはかぎらないから、むしろ警戒すべきである。教理よりも体験を重んじがちなタイプの信者は欺かれる。

3.偽預言者は、「悪い実」「不法」を行う。すなわち、彼らは表面的には「羊のなり」をしてよい人なのだが、注意深くその行動を見ると、「悪い実」をみのらせている。「悪い実」とはガラテヤ書で言えば「肉のわざ」である。

「肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。」(ガラテヤ5:19-21)

4.偽預言者は世の終わり(携挙・再臨)が何年何月何日に来ると予言する。だが主イエスは言われた。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(マタイ24:35,36)

5.偽預言者による世の終わりの預言を信じた人は落ち着きを失ってしまうが、正しく聖書の終末預言を学んだ人は、神を愛し隣人を愛する落ち着いた生活をする。主が再び来られたときに、主のもとに引き上げられるのは、その日をあらかじめ知って騒ぎ立てている人ではなく、神を愛し隣人を愛し、地道に落ち着いた生活をしている人である。

「また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。」(1テサロニケ4:11)

 

 

牧田吉和先生による書評『新・神を愛するための神学講座』

書評:水草修治著

『新・神を愛するための神学講座』(地引網出版 2022年1月)

 

本書は、夕礼拝の「教理説教」に発し、その後の信州小海における開拓伝道と教会形成、さらには苫小牧での伝道牧会の中で育まれ、30年を要して結実した書である。「神を愛するための神学講座」というタイトルには本書の思いが集約されている。伝道の現場の中で粘り強く考え抜かれた著者の神学的姿勢に心からの敬意を表したい。本書は神学の原点を指し示す書でもある。

本書は、聖書に密着しつつ、難しい内容をわかりやすく、信徒の方々にも理解できるように叙述されている。牧会的思いが溢れている。しかし、内容的には軽い書物ではない。「組織神学概論」としての本格的内容を持つ。著者は哲学を専攻され、教会教父にも通じ、「弁証学」にも強い関心がある。本書にもその特色は色濃く反映されており、内容的にはかなり難しい部分を含む。牧師の指導の下で読まれると理解の助けになるであろう。

著者は積極的に持論を展開する。特に注目すべきことは教父に学びつつ「『神のかたち』は御子である」という主張を掲げることである(214頁以下、304頁以下)。その際、「御子」は神と人との創造の仲保者と理解される。しかし、この主張の意図は理解できるが(155頁)、議論されるべき問題である。「仲保」の概念は相互の対立を前提としている。創造論的意味において神と被造物の間に対立はなく、「仲保」の概念は成立しない。歴史的には議論のある問題であるが、個人的には誤解を避ける意味でも慎重でありたいと思う。

著者の神学的背景は改革・長老主義の歴史的正統主義の伝統である。創造論的視野が重んじられ、救済理解も包括的である。しかし、敬虔主義の陥る弱点も指摘されているが、同時に評価もされている。福音主義諸教会全体のことを考えて、バランスがとられている。この意味では、福音主義諸教会が安心して読める書、読むに値する内容豊かな書である。

                       (改革派宿毛教会 牧田吉和)

 クリスチャン新聞に載せられた牧田吉和先生による書評です。牧田先生は長く神戸改革派神学校で校長を務められ、現在は高知県宿毛で伝道牧会をしていらっしゃいます。一昨年、北海道聖書学院にも教えに来てくださいました。このたび『改革派教義学』のキリスト論の巻を書き上げられました。

 上の書評で触れてくださった「『神のかたち』は御子である」という点は、先生の指摘なさるとおり、私が是非多くの人に知ってほしいと願っていることです。この本を書こうと思った主な動機でもあります。すなわち、エイレナイオス、オリゲネス、アタナシオスたち初期ギリシャ教父たちは、創世記1章26,27節に出てくる人間が創造されるにあたって、そのモデルであったのは三位一体の第二位格である御子であるという理解をしていました。それは使徒パウロ創造論の文脈の中で「御子は見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」(コロサイ1:15)と教えているからです。パウロが創造を論じるにあたって念頭に置くのは、なんといっても創世記1,2章です。その中で「神のかたち(エイコーン)」ということばが用いられているのは、いうまでもなく創世記1章26,27節ですから。

 父なる神は、私たち被造物が見ることも近づくこともできない超越者であり、御子は被造物に親しく関わるという役割を担うお方です。父は御子のうちに子とするものたちを選び、父のご計画にしたがって御子は万物を創造されました。また知りえない父を私たちに親しく知らせてくださったのは御子です。救済において、神と人との仲介者となられたのはいうまでもなく御子です。

 西方教会の神学の伝統では牧田先生のおっしゃるとおり「仲介」という概念は、救済論的な文脈でもちいられて来たので、「『仲保』の概念は相互の対立を前提としている。」とおっしゃるのでしょう。しかし、仲保・仲介(mediate)という概念は、必ずしも対立を前提としません。WordNetによればmediatehaの語義について「2つの異なるものの中間的であるか中央の位置を占めるか、またはそれらの間の、結びつけるための関係あるいは段階を形成する。」とありますし、研究社新英和でも3番目の語義として「(贈り物・情報などを)取り次ぐ」というものを挙げられています。キリストは神の第二位格であられますが、父から賜った職務として、無限の神と有限の人との間に立って両者を結ぶ役割を果たすという意味で、御子の仲介を単に救済論的文脈だけでなく、選び・創造・啓示そして審判まですべて無限の神が有限な被造物に関わる場面で、常に両者の間に立つ働きを、仲介なさるのです。

 アマゾンリンク↓

新・神を愛するための神学講座 | 水草 修治 |本 | 通販



東京散歩

 月曜日は理事会、火曜日と水曜日は特別会議というのがあって、御茶ノ水に泊まりました。朝は相変わらず目が早くさめるので、散歩しました。火曜日は御茶ノ水の聖橋から歩き始めて、湯島廟、ニコライ堂を通って東京駅の方向に向かって、大手町で引き返して往復8230歩。水曜日は古川先生と一緒に、江戸城の周りをぐるりと回ってきました。こちらは1万2300歩くらい。履きなれない靴をはいていたので、小指が痛くなりました。
 東京の西の端っこの方に神学校で3年間、卒業して9年間住んでいましたが、東京は神田の古本屋街と池袋周辺と教団事務所のある渋谷区幡ヶ谷しか知りません。歩いてみると、いろいろ発見があって面白いですね。

湯島聖堂

御茶ノ水

ニコライ堂

関東大震災記念碑

Yシャツ専門店らしい。桑田さんですかね、この顔。

イオニア式の柱頭ですね

東京駅

和田倉橋

♪ここがここが二重橋 記念の写真を撮りましょうね~♪