マタイ16:22が新改訳第三版では「神の御恵みがありますように。」とあったのが、2017では「とんでもないことです。」と改められた。えらい違いですねえ。ギリシャ語でヒレオースということばです。辞書で見たら、両方の意味がある。不思議です。
口語訳、新共同訳、フランシスコ会訳は「とんでもないことです」です。大正改訳「然あらざれ」ですから、同じ趣旨。さまざまの英訳聖書もほとんど、そういう趣旨ですね。わずかにInternational Standard Versionだけが、God be merciful to youという訳です。
文脈的に見て、2017が正解でしょう。
それにしても、「神の御恵みがありますように。」と「とんでもないことです。」とが同じ語につけられる訳語としてありうるのが、不思議。
旭川・塩狩駅訪問2017年9月5日
↑三浦綾子記念館
『氷点』の原稿
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」(ガラテヤ2章20節)
信州から北海道に転じてきて、どうしても訪ねたい場所がありました。それは塩狩峠です。高校三年生の夏休み、私は毎日神戸大倉山の図書館の学習室に通っていましたが、ある朝、途上の坂道の小さな珈琲店の前で、三十歳ほどの男性に呼び止められました。「今日、文化ホールで午後三時からキリスト教映画を無料で見られますよ。お友だちも誘ってきてください。」と言うのです。
インターネットはおろかホームビデオもなかった時代、無料で映画を見られるというのは、魅力的な勧誘でした。そこで、その日は勉強を早めに切り上げて、図書館に来ていた同級生二人といっしょに図書館の隣にある神戸文化ホールに出かけていきました。
映画『塩狩峠』を観て、印象に残ったことが二つありました。一つは、雪が降りしきる夕刻、旭川駅前で路傍説教をする牧師が引用した、主イエスの十字架上のことば、「父よ。彼らを赦してください。彼らは自分で何をしているのかわからないのですから。」です。もう一つは、主人公が身を挺して、峠を逆走し始めた客車を止めたとき、雪に飛び散った鮮血でした。
映画を見たあと、神戸駅へ向かう石畳の下り坂を三人歩きながら話しました。同級生二人は、「俺はあんな死に方できひんなあ。」と言っていました。私は愚かにも心中、「ぼくならできるかもしれない。」などとつぶやいていたのです。
しかし、その一か月後、私は身辺で起こった痛ましい出来事に直面して、自分がいかに利己的な人間であるかということを思い知らされました。そして、生きる意味を探し求めざるをえなくなりました。そのとき浮かんで来たのは主イエスの十字架のことば「父よ。彼らを赦してください。」でした。この世にも、私自身のうちにも真実の愛はないけれど、もし真実の愛があるとすればあの十字架のキリストにこそあるのだろうと思いました。受験は失敗し、翌年晩夏、私は牧師と面談し、さらに翌年一月から礼拝に通うようになり、キリストを信じたのです。
あれから四十年、塩狩峠駅の石碑の前に立って、私は胸の中で、「神様。ようやくやって来ました。」と祈りました。石碑には次のように刻まれていました。
「明治四十二年二月二十八日夜、塩狩峠に於いて、最後尾の客車、突如連結が分離、逆行暴走す。乗客全員、転覆を恐れ色を失い騒然となる。時に、乗客の一人、鉄道旭川運輸事務所庶務主任、長野政雄氏、乗客を救わんとして、車輪の下に犠牲の死を遂げ、全員の命を救う。その懐中より、クリスチャンたる氏の常持せし遺書発見せらる。『苦楽生死均しく感謝、余は感謝してすべてを神に捧ぐ。』右はその一節なり。三十歳なりき。」
長野政雄氏が神と隣人に命をささげた後、多くの鉄道員たちがキリスト信仰に入ったそうです。そして、三浦綾子さんの『塩狩峠』はこれまでどれほど多くの人を主のもとに導いたことでしょう。回心者がなかなか起こされない時代、私たちは伝道の方策をいろいろ工夫しますし、それはそれで意義ある努力でしょう。しかし、何よりの伝道は、キリスト者としての生き方、そして死に方なのだということを、塩狩峠の石碑の前で思わされました。二月二十八日は長野政雄兄の殉職・殉教の日です。(『世の光』2021年2月号)
福音を恥とせず
きょうは良い天気
きょう苫小牧は良い天気で、朝食前に『苫小牧通信』を配りながらウロウロしているとソメイヨシノが九分咲きになっていました。コロナのニュースを見ながら朝ごはんを食べると、家内といっしょに教会の兄弟姉妹のためにお祈りして、そのあとは午前はZOOMでお昼まで会議。
午後は、今年の母の日は男たちが女性のために人数分クッキーを焼いて持ち寄ることになったので、私も挑戦しました。クッキー焼きは高校生のとき以来です。無駄にならないために、家内に教わりながらというか、いっしょに焼きました。一番かんたんなのですが。
それから、明日は、Y姉の納骨式なので、お墓の様子を見に行って、式次第をつくって、お奨めの準備をして・・・というわけで、まあ、いろいろとやっていると、もう夕方です。でも、日が長いですね。まだ明るい。
そういえば、先週土曜日、「毎月、『苫小牧通信』を読ませていただいています。教会に出かける勇気はまだありませんが、ずっとお礼を言いたくて電話をしました。私以外にもファンがたくさんいると思いますよ。」と、鍵屋さんからお電話がありました。こういう反応があると、励みになります。
再会を期して
この春、北海道聖書学院を卒業したばかりの姉妹のお母さまが、急逝されて、静内にお葬式に行ってきました。1958年生まれ、私と同学年の女性です。
今回初めて知ったのですが、彼女は中学生のときに、今私が仕えている苫小牧福音教会で洗礼を受け、後に、静内のほうにお嫁に行かれてクリスチャンホームを築いて、今日まで歩んで来られたとのことでした。七人のお子さんに恵まれたとのこと。
忠実な信徒として教会で多くの人たちの慰めとなり、賛美歌とダジャレが大好きなおばちゃんだったとのこと。静内の合唱団でも活躍しておられて、合唱団からきた弔電も読み上げられました。教会の文集に掲載された、彼女の文章の中に、自分が今楽しみにしていることの一つは、死産で顔を見ることがないままに天国に送った娘に会うことです、とありました。今、ご対面されていることです。
出棺の直前、亡骸に花を飾るとき、最後に夫君が、最後に白いランをその首もとに飾って、「しばらくしたら行くから、また、会おうな。」と言いながら、顔を撫でていらっしゃいました。
静内は桜が咲き始めたところで、帰りに桜が咲いた駐車場でコンビニで買ったおにぎりを家内といっしょに食べました。
鈴木範久『日本キリスト教史物語』
およそ五百年前、キリスト教は日本に入った。その扱われ方から、次のような変遷があったと著者はいう。これはなるほど。
1 異神 1549-1587
1549年はザビエル来日
2 邪宗門 1587-1859
1587年は秀吉によるバテレン追放令
3 耶蘇教 1859-1873
1858年は開国、1859年宣教師来日
4 洋教 1873-1989
1873年は切支丹禁制高札撤去
5 基督教 1889-1945
1889年は明治憲法公布、制限付きで信教の自由
6 キリスト教 1945-
1845年は敗戦、1847年日本国憲法で信教の自由
わずか200頁ほどの小さな本である。
題名は、ローラント・べイントンの名著『世界キリスト教史物語』の日本版ということで教文館が付けたとのこと。柳の木の下にドジョウはいたのかなあ。表紙が面白い。これはなんだろう?