1 人間創造のモデル
使徒パウロがコイネーギリシャ語で記した手紙の中で引用する旧約聖書の多くは、彼が親しんでいた70人訳ギリシャ語聖書からである。コロサイ書1章15節に次のようにある。
「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。」(口語訳)
このギリシャ語本文は次のとおりである。
ὅς ἐστιν εἰκὼν τοῦ θεοῦ τοῦ ἀοράτου, πρωτότοκος πάσης κτίσεως,
「神のかたち」はεἰκὼν τοῦ θεοῦである。旧約聖書に親しんできたパウロが、万物の創造について述べる文脈の中で「神のかたち(εἰκὼν τοῦ θεοῦ)」という表現を用いた時、また70人訳聖書が普及していたヘレニズム世界の教会の読者が、当然思い出した70人訳旧約聖書の箇所はどこだろうか?言うまでもなく、創世記1章26、27節であろう。そこには、下のように書かれている。27節
καὶ ἐποίησεν ὁ θεὸς τὸν ἄνθρωπον, κατ᾽ εἰκόνα θεοῦ ἐποίησεν αὐτόν· ἄρσεν καὶ θῆλυ ἐποίησεν αὐτούς.
直訳すれば、「神は人を造られた。神のかたちにしたがって彼を造り、男と女とに彼らを造られた。」となる。この箇所を受けて、使徒パウロは、「御子は見えない神のかたち」であると言っていると解される。つまり、「創世記1章で、神が、人間創造のモデルすなわち『神のかたち』としたのは御子なのだ」と注釈しているのであると解される。創世記の記者は、そのように意図して書いたとは思えないけれども、そのように書かしめた聖霊の意図が、パウロのときにようやく開示されたということになる。
2 「神のかたち」の意味
「御子は見えない神のかたちである」ということの意味は、有限な被造物にすぎない私たちには見ることのできない神を見えるようにしてくださる神の「写し」という意味である。父なる神の「写し」である御子であり、私たちは御子によって父なる神を見ることができる。これはヨハネ福音書1章とへブル書1章に表現される思想と同じである。
「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。」ヨハネ1:18
「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。」へブル1:3
その御子に似た者として、人間は造られたのである。
3 目的
では何のために、神は創造するにあたって御子をモデルとなさったのだろうか。へブル書1章2節には「神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。」とある。神のこの万物創造の目的は、御子に万物を相続させることである。そして、神の民を御子の共同相続人して万物を御子と共に相続させて神の王国を完成させることである。
「もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。」(ローマ8:17)
神が人を御子のかたちとして造られたのは、人に御子とともに世界を相続させて神の王国を完成させるためである。そのありさまは、黙示録22章に黙示的表現で記されている。
「御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。 のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、 御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。(黙示22:1‐同22:5)」