苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

土俵を作り直さなければ

 「自由主義神学の聖書学者に対しても、勝負をするためには、相手の土俵に上がらねばならないんだよ。」というふうなことを聞かされることがある。確かに、土俵に上がらなければ相撲はできない。そういう学問世界の人は、それはそれで苦労だろうなあと同情しつつも、私の性分としては「土俵が間違っているなら、土俵を作り直さなければならないでしょう。」と言いたくなる。「土俵」というのは「ものを考える前提」のことである。
 近代自由主義の聖書学の「ものを考える前提」とは、実証主義である。実証主義とは『山川世界史小辞典』(改訂新版)によれば、「あらゆる形而上学的な仮説を排除して、知識の対象を経験的に与えられた事実に限定しようとする考え方。人間と社会の諸現象も、自然科学の方法を用いて統一的に説明できるというサン・シモンの提唱に始まった。コントに継承されて体系化され、19世紀後半から20世紀にかけて認識論の支配的立場を占めた。しかしこの立場そのものが一つのドグマになるとする批判が展開している。」

 「形而上学的な仮説」というのは、神がもたらした啓示や奇跡を意味している。それを排除するというのは、啓示や奇跡は最初からありえないこととするという意味である。言い換えれば現象界で起こっていることの原因は、すべて現象界の中にあるという前提でものを探究するというのである。こんなとんでもない前提で聖書を読んで、神の啓示である聖書が正しく読める道理があるだろうか。・・・というわけで土俵を作り直さなければならないよ、と私は言いたくなってしまう。かつてC.S.ルイスが『奇跡』という本で論じたのはそういうことだった。