苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖書解釈には、同時代文献との類似性でなく相違点が肝心

 半年ほど前に、ふと思い出して書いたことは、やはり大事なことだと思うので、もう一度書いてみる。
 大学時代、国文から哲学に専攻を変更して哲学書を読み始めたとき、難しくて何を言いたいのかがわからなかった。そこで指導してくださる飯塚勝久先生に「何か哲学辞典を買うべきでしょうか?」と質問したところ、先生は「いや哲学書というのは、その時代にあって誰も疑問に思わなかったことについて哲学者が根本的疑問をいだき、その疑問になんとかして答えようとして、考えに考えて文章をつづったものであるから、彼の用いることばは当時の言葉遣いとは異なる独特の意味を含んでいるものなのです。ですから、辞典では通り一遍の意味を確認はできても、その哲学者が言わんとすることは、そう簡単にはわからない。その哲学書を何度も熟読玩味することが何よりも大事です。そうして通り一遍の考え方と異なる点にこそ、哲学者の主張があるのです。」というふうな内容のことをおっしゃった。

 新約聖書を解釈するために、同時代のヘレニズムとの類似性から解釈しようとすることが、20世紀半ばくらいに流行した。ブルトマンの時代である。けれども、その後、むしろ新約聖書を理解するためにはヘブライズムとの類似性から、つまり、同時代のユダヤ教文献との類似性から解釈すべきだということが強調されるようになった。

 だが同時代のユダヤ教文献からわかる事柄というのは、イエスの周囲にいたユダヤ人たちの思想、あるいはパウロの告げる福音に反発していた人々の思想にすぎないのである。たとえば当時のユダヤ人たちは先祖が神に背いた罪のゆえに、イスラエルは神の裁きとしてバビロン捕囚にあって以来、バビロンの支配、ペルシャの支配、シリアの支配、そしてローマの支配の下に置かれて、ずっと主権を回復できないままに来ている。新約聖書の同時代のユダヤ人たちが抱いていた罪観と贖い観とは、イスラエルの民が神に赦され神の民として認められることであった。実際、福音書を読んでみれば、イエスの周りのユダヤ人たちは、弟子たちも含めてこのような罪観と贖い観を持っていたことがわかる。彼らはイスラエルの贖われることを願い、イスラエル民族が主権を回復することを願っていた。群衆はイエスを理解することができず、五千人給食の時にはイエスを王として担ぎ出そうとしたし、イエスの身近にいた弟子たちでさえイエスエルサレムで王座に着いたら自分たちを右大臣に、左大臣にと野心を抱いていた。イエスが十字架にかかって復活した後でさえ、イスラエルの復興はいつですかなどと問うている。だから、同時代のユダヤ教との類似性に着目して新約聖書を解釈しようとすると、イエスの周辺のユダヤ人たちのことは理解できるが、肝心のイエスのことは解釈できない。

 ではイエスを正しく理解したければ、どうすればよいのか?それは福音書そのものをしっかりと熟読玩味することである。そうして、同時代の文化・文献との表面的類似ではなく、相違点にこそ読み取るべき肝心なことがらがあることをわきまえておくことである。