苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

かたや闇、かたや光

 昨日はよいお天気で、妻と教会墓地の草刈りをしました。草はたいしたことはありませんでした。今日の午前中、天に召された教会のM姉の納骨式をするためでした。ご家族が来られての納骨式でした。
 新約聖書黙示録の最後の章を開いて、納骨式で話すことを準備をしながら、子どものころ教わった葬式仏教の死後のことを思い出しました。私が育ったのは、典型的な葬式仏教徒の家でした。死後の世界は冥土、つまり死者の住む暗黒の国です。冥土にいたるために渡らねばならない川は三途の川で、賽の河原では水子たちが石を積んでは、鬼たちに壊されて泣いている。また、お盆になると、父に聞かされたのは「地獄の釜のふたが開いて、ご先祖様が帰ってくるけれど、お盆が終わると、また地獄に戻って行き、釜のふたがしまるんや」ということでした。なんという暗く絶望的な死後でしょう。
 ところが、黙示録22章1節から5節どうでしょう。

御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、 御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。(黙示録22章1‐5節 口語訳聖書)

 イエスを信じる者に用意された完成された神の王国は、葬式仏教の冥土とは、対照的です。そこは「いのちあふれる国」であり「光り輝く国」です。そのいのちと光の源は、父なる神と御子イエスの御座から流れ出て都を潤すいのちの水の川つまり聖霊です。今私たちのいる世界には、死の兆しがあらわれていますが、神の王国にはいのちが満ち溢れています。
 聖徒たちは、神の御顔を仰ぎ見る至福を得て、彼らの額には「おまえはわたしのものだよ」とおっしゃる神の御名がつけられている。聖徒たちは神のしもべとして謙遜な心をもって、しかも、王としての自由な精神で、御子とともに王国を相続して治めるのです。M姉のご遺族もみな、イエス様を信じて、御国に入れますようにと祈ります。