苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「与えた」でなく「贈った」「差し上げた」

 アブラムがメルキゼデクから祝福を受けたとき、「すべての物の十分の一を彼に与えた」(創世記14:20)と新改訳2017は訳している。しかし、「与えた」というのでは、アブラハムがメルキゼデクより格上になってしまう。祝福を与える側は、受ける側よりも格上である(へブル7:7)。だから、ヘブル語ではナーターンは英語ではgiveで同じなのだろうが、日本語としては、ここは「与えた」ではなく、「贈った」あるいは「差し上げた」と訳すべきだろう。

 このアブラムに葡萄酒とパンを持参して、祝福を与えたサレムの王メルキゼデク(義の王)という謎めいた人物は、受肉以前のロゴスではないかと言われていて、私もそう思っている。へブル書7章1-10節を参照。

 

注:「与える」が尊大語であることについては下記にも説明されている。

与える:上から目線の言葉・尊大語