苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

十字架のことば

                    使徒13:13−52
                    2010年6月27日 小海主日礼拝

  シリヤのアンテオケの教会から派遣されたバルナバパウロは、キプロス伝道を終えて、パポスを船出して小アジア半島のパンフリヤ地方のペルガの港に着き、そこから今度はピシデヤのアンテオケに行きます。先のアンテオケとは別です。アンテオケという町は、セレウコス朝シリヤ王国のアンティオコス王が自らの記念として各地に建設された町町です。出発地はシリヤのアンテオケ、今回の到着地はピシデヤのアンテオケです(13,14節)。
 バルナバパウロは例の如く、安息日にこの地のユダヤ教の会堂にはいります。そこにはディアスポラユダヤ人と、改宗した異邦人たちが集っていましたから、まずは彼ら旧約聖書になじんできた人々に伝道をするためでした。みなさんが旧約聖書(律法と預言者)で読んでいる、アブラハムモーセダビデが待ち望んでいた救い主キリストが実際に来られたのですと話をするわけです。
ユダヤ教シナゴーグでは「律法と預言者」の朗読が礼拝の中心的部分です。その朗読が終わると、解説がなされます。旅の聖書の教師であるバルナバパウロの様子を見た、会堂管理者は、人をやってこう言わせました。「兄弟たち。あなたがたのうちで、この人たちのために奨励のことばがあったら、どうぞお話しください。」(私訳)

1 パウロの説教

  そこでパウロは話し始めます。説教は三つの呼びかけで三つに区分されます。「イスラエルの人たち、ならびに神を恐れかしこむ方々。よく聞いてください。」(16節)という呼びかけから始まり25節にいたるのが第一の部分で、旧約時代のキリストが来られる準備が説明されます。
 次に、「兄弟の方々、アブラハムの子孫の方々、ならびに皆さんの中で神を恐れかしこむ方々。」(26節)という呼びかけから始まり27節にいたる第二の部分で、キリストのみわざが語られます。
 そして、「ですから、兄弟たち。」(38節)からはじまり41節にいたる第三の部分で、キリストによる罪の赦しが語られます。

(1)旧約時代のメシヤ到来の準備
 まず旧約時代のことです。パウロは、神がイスラエルの父祖アブラハム、イサク、ヤコブを選び、神がその子孫たちがエジプトで増やし強くして、エジプト脱出をさせ40年間彼らの荒野での不従順を耐え忍ばれた、と神を主語として語ります(17-19節)。 ついで、さばき人(士師)の時代に士師を派遣したのも神であり(21節)、次に、サウル王、ダビデ王が立てられて王国時代が築かれたこともまた、神が主語として表現されています。そして、23節「神は、このダビデの子孫から、約束に従って、イスラエルに救い主イエスをお送りになりました。」とメシヤ預言を告げています。注目すべきことはアブラハムからダビデにいたる歴史を、神を主語として述べているという点です。イスラエルの歴史は、神が摂理の御手をもって導かれたものであり、その計画の目標として、キリストが到来されたのですよとパウロは教えているのです。
 そして旧約最後の預言者バプテスマのヨハネについてパウロは言及しています。ヨハネには二つのメッセージで旧約の預言者の働きを総括しました。一つは悔い改めのバプテスマでした。人は神の前で罪があるから、己の罪を認めて悔い改めなければならないのです(24節)。
ヨハネのもう一つのメッセージは預言者である自分のあとには自分にはるかに偉大なお方、つまりキリストが来られるということでした(25節)。モーセ、イザヤ、エレミヤといった預言者たちがいかに偉大な器であったとしても、彼らは準備にすぎませんが、イエス・キリストは成就でした。神がイスラエルの歴史を導き、悔い改めを促し、キリストの到来の備えをしました。アブラハムから二千年後ついに、キリストが来られたのでした。

(2)イエスの出来事  十字架の死と復活
 ついで、パウロはイエス・キリストのみわざについて語ります。パウロは、主イエスの三年間の伝道生活やさまざまの奇跡や、あのすばらしい山上の説教については一言も触れることなく、いきなり主イエスの十字架の死と復活という出来事に集中して述べていることにまず注目すべきです。ちょうど、使徒信条と同じです。使徒信条のキリストに関する告白では「主は聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに十字架につけられ・・・」とありますように、主イエスは処女マリヤから生まれたという告白から一足飛びに十字架に向かってしまいます。異様な感じがします。キリストはまるで死ぬために生まれたといっているようです。まさに、その通り、キリストは十字架にかかるために、そして復活するために生まれたのです。キリストのみわざの中心は、十字架の死と復活でした。
 しかも、キリストの十字架と復活の出来事は、すべて旧約聖書の預言の成就なのだと強調されている点に注目してください。イエスの十字架の死については、27-29節 「エルサレムに住む人々とその指導者たちは、このイエスを認めず、また安息日ごとに読まれる預言者のことばを理解せず、イエスを罪に定めて、<その預言を成就させてしまいました>。そして、死罪に当たる何の理由も見いだせなかったのに、イエスを殺すことをピラトに強要したのです。こうして、イエスについて<書いてあることを全部成し終えて>後、イエスを十字架から取り降ろして墓の中に納めました。」
 イエスの復活については、証言者たちの事実、旧約聖書ダビデによる詩篇のメシヤ預言を引用しながら30節から37節で述べています。
「しかし、神はこの方を死者の中からよみがえらせたのです。イエスは幾日にもわたり、ご自分といっしょにガリラヤからエルサレムに上った人たちに、現れました。きょう、その人たちがこの民に対してイエスの証人となっています。 私たちは、神が父祖たちに対してなされた約束について、あなたがたに良い知らせをしているのです。神は、イエスをよみがえらせ、それによって、私たち子孫にその約束を果たされました。詩篇の第二篇に、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ』と書いてあるとおりです。 神がイエスを死者の中からよみがえらせて、もはや朽ちることのない方とされたことについては、『わたしはダビデに約束した聖なる確かな祝福を、あなたがたに与える』というように言われていました。ですから、ほかの所でこう言っておられます。『あなたは、あなたの聖者を朽ち果てるままにはしておかれない。』ダビデは、その生きていた時代において神のみこころに仕えて後、死んで父祖たちの仲間に加えられ、ついに朽ち果てました。しかし、神がよみがえらせた方は、朽ちることがありませんでした。」

(3)罪の赦し・義認
 神が遣わされたキリストの十字架の死と復活のみわざが私たちに救いをもたらします。キリストがくださる永遠のいのちには豊かな側面がありますが、ここでパウロは、その永遠のいのちの入り口の核心として、神の前における罪の赦しを述べています。キリストを信じる者は、神の法廷において義と宣言していただけるのだという福音です。38節。
「ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。」
 続く39節は、翻訳上問題があって、「解放される」よりも脚注に直訳としてかかげられるように、「義と認められる」のほうがパウロの伝道説教として的確です。「モーセの律法によっては義と認められることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、義と認められるのです。」
 イエス・キリストは、十字架で私たちの罪に対する罰を背負って身代わりに苦しみ、死んでくださり、その贖いのわざが完了したことを証明することとして復活してくださいました。ですから、イエス様を「信じる者はみな」神の前に義と認めていただけるのです。神の前で義と宣言された以上、もはや私たちは良心の呵責にさいなまれたり、死後の神の御前でのさばきを恐れる必要はなくなりました。私たちは、ひとりひとり、たしかに神の法廷で、私たちがこの世で行なったすべてのことを明らかにされる時が訪れます。けれども、その法廷においては私たちの救い主であるイエス様はおっしゃいます。「わたしがお前の罪ののろいをすべてこの身に背負った。そして、お前はそのことを確かに信じて受け取りました。」とおっしゃって、私たちの罪を赦し、義と宣言してくださるのです。

 旧約の準備、キリストの十字架と復活、そして、罪の赦しについて述べてきて、パウロは最後に警告を与えます。
「ですから、預言者に言われているような事が、あなたがたの上に起こらないように気をつけなさい。『見よ。あざける者たち。驚け。そして滅びよ。わたしはおまえたちの時代に一つのことをする。それは、おまえたちに、どんなに説明しても、とうてい信じられないほどのことである。』」(13:40-42)
 父祖アブラハム以来、多くの預言者たちが二千年間待望したキリストがこのようにして世に出現して、十字架の死と復活をもって救いのわざを完成されました。その救いがあまりにも破格の神の愛の現れなので、理解しがたいかもしれません。しかし、「そんなばかなことがあるものか!」と嘲ってはいけません。滅びることになります。むしろ、全ては理解できずとも、すなおにイエス・キリストをわが罪からの救い主として信じ受け入れることが唯一のいのちの道です。これは、私たち一人一人に対する神のことばです。受け入れて救われなさい。滅びを選んではなりません。

2 十字架のことばは・・・

 さて、パウロの説教を聴いて、みな驚きました。しかし、その場で決断した人はいなかったようです。そして、一週間後、きょうは来ていない人たちもいるから、次の安息日にも同じ事を話してくれと頼みました(42節)。さらに、ユダヤ人も改宗した異邦人たちでイエスを信じた人々もパウロバルナバについてきて話を聞きたがりましたので、「いつまでも神の恵みにとどまっているように勧めた」のです(43節)。
 こうしてキリストの福音を聞いた人々は、家に帰るとこのことを家の中の話題、地域の話題、職場の話題にしましたから、その一週間はピシデヤのアンテオケの町中はキリストの話題でもちきりになりました。それで、次の安息日は、町中の人々のほとんどが神のことばを聞きにシナゴーグに集ってきたのです。シナゴーグは押すな押すなのありさまで、会堂内には入りきれず青空集会になったのではないかと思われます(44節)。

 しかし、残念なことに、パウロバルナバの宣教を聞きながらイエスを受け入れなかったユダヤ人たちは、ねたみに燃えて、福音に反対して、パウロらを口汚くののしりました(45節)。「ねたんで」というところを見ると、このユダヤ人たちというのは、恐らくこれまでこの地域の会堂で群れを指導していたラビたちであろうと思われます。自分たちがこれまで熱心に指導してもなかなか人々が集ってこないのに、ほんの一週間前に来たばかりのパウロバルナバがイエスについて話すとどっと群集が押し寄せたので、嫉妬を感じたのでしょう。ちょうどイエス様のもとに民衆が集って、自分たちへの尊敬にかげりが出てきたときに、律法学者、祭司たちがねたみを感じたのと同じです。
 このようにして、あるユダヤ人たち、特に指導的な立場の人々は神のことばを拒んだのでした。そうして自ら、滅びを選んでしまったのです。そうして、キリストの福音はむしろ、おもに異邦人へと向けられていくことになります。
「そこでパウロバルナバは、はっきりとこう宣言した。『神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。なぜなら、主は私たちに、こう命じておられるからです。
  「わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。
  あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。」』
異邦人たちは、それを聞いて喜び、主のみことばを賛美した。そして、永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰に入った。こうして、主のみことばは、この地方全体に広まった。」
 パウロバルナバの宣言を聞き、指導的ユダヤ人たちはいっそう怒りに燃え上がりました。そうしてパウロバルナバを迫害して、この地方から追放してしまうのです(50節)。これに対してふたりは、主イエスの教えどおりに、彼らに対して足のちりを払い落として、イコニオムへ立ちました。

むすび
 キリストの福音、十字架のことばが明瞭に語られるとき、人がそこでいのちに入る人々と、滅びにいたる人々に二分されていきます。真理の光が弱いときには、なんとなく一つになっていた者たちが、十字架のことばの光が照らされるときに、はっきりと二つに分けられていくのです。「十字架のことばは、滅びにいたる人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。」とコリント人への手紙第一に、使徒パウロが言っているとおりです。十字架のことばをあいまいにせず、明瞭に宣教されなければなりません。神にあるいのちを求めるひとは、神に背を向けてきた自分の罪を悔い改めなければなりません。そして、あなたのために十字架に死んで三日目によみがえられたイエスを信じなければならないのです。